豊臣秀吉(羽柴秀吉)

豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)1537年(天文6年2月)〜1598年9月18日(慶長3年8月18日)

安土桃山時代の武将。

尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓で織田信秀の足軽木下弥右衛門を父に,同郡曾根村の百姓の娘なか(天瑞院)を母として誕生。父は戦傷のため帰農,秀吉7歳のときに没し,母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚した。幼時は面相から小猿と呼ばれ日吉丸と称した。

天文20(1551)年元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出。行商ののち,今川氏の家臣松下之綱,次いで織田信長に仕官,永禄4(1561)年夏織田家の弓衆浅野長勝養女ねね(旧姓杉原氏,木下定利次女)を娶り,木下藤吉郎秀吉と名乗った。

清洲城普請,墨俣築壘,次いで京都警備,江北出陣と戦功を重ね,天正1(1573)年8月浅井氏の滅亡により小谷城主と旧領18万石,羽柴姓と筑前守の受領名を給った。

次いで湖辺今浜の古城址に長浜城を経営,年貢・諸役免除など繁栄に尽力した。

信長の天下統一が西国におよぶと命に従って転戦。同10年播磨,但馬, 因幡, 淡路を征し,備中高松城に毛利軍と対陣中に本能寺の凶変を知った。

秀吉は逸早く和睦して軍を返し,山崎に謀反人明智光秀を討って信長の統一事業を継承。織田信孝, 柴田勝家,滝川一益らの同僚の反発を抑え,同12年織田信雄徳川家康の連合軍と小牧・長久手で戦った。

長久手で家康に敗れたことは秀吉として最大の痛恨で最後まで東国と家康を意識せざるを得なくなったが,西国は大坂城を拠点として,まず同13年3月紀州根来と雑賀を征し,四国長宗我部元親を服し,九州は同14,15年北の大友と南の島津の対立に大友を後援して島津義久を降し,筑前博多の復興に尽くして凱旋した。

博多は信長以来の堺に代わって秀吉の貿易政策の拠点,大陸侵略の基地ともなる。

天正15,16年は秀吉生涯で最高の時期であった。さきに山崎合戦に勝利したとき,従五位下左近衛権少将となり姓も信長の名乗,平を受けたが,13年内大臣に任じ右大臣菊亭晴季の計らいで前関白近衛前久の養子となり,関白二条昭実を罷めさせ関白に進んだ。

関白にふさわしい邸宅として14年2月から壮大な聚楽第の建設をはじめ,また方広寺大仏の造営に着手,同年12月には太政大臣に進み豊臣の佳姓を賜った。

15年には九州征討も終えて9月13日聚楽第も成り,ここに中秋の名月を賞した。

10月1日には秀吉の企画,茶頭千利休の演出のもとひろく庶民を集めて北野大茶湯を催して一世を驚かせ,翌16年春には後陽成天皇に聚楽第行幸を仰いで,洛中地子銭を献上し,諸将からも誓紙を得て政権を固め, 権力基盤となる検地も徹底させ大仏建立を口実に刀狩を行い兵農分離を進行せしめた。

天正18年には小田原に北条氏直らの征討を行い関八州を家康に与えて,一応国内統一を終えて凱旋したが,前年来貢を促していた朝鮮使を聚楽第に引見,続いて翌年には朝鮮侵略を決定,文禄1(1592)年,文禄の役を開始した。

この前後から秀吉の性急な行動に精神的異常性が加わったかにみえる。

その端緒は天正17年3月聚楽第の南鉄門に関白批判の落書が現れたとき,その犯人を探索し,まず7人は一昨日に鼻を削ぎ,昨日耳を切り,今日は倒磔(さかさはりつけ)にし,さらに老若男女63人を磔にし,ついに130人が同様の刑罰を受けた(『鹿苑日録』)。

19年2月には最も寵愛した利休をも自刃に追い込んでいる。

同年8月秀吉は甥の養子秀次に関白職を譲って太閤と称した。

文禄2年側室淀殿に実子秀頼が生まれると,同4年7月に秀次を謀反人として切腹せしめ,妻妾子女悉くを処刑。その残酷な方法はこの間に進められた朝鮮役における一般俘虜についても同様で,耳塚伝説を裏付ける。

文禄,続いて慶長(1597~98)の朝鮮侵略は失敗,晩年は伏見城において幼い秀頼の前途のみを案じた暗澹たる最期であった。豊国廟に豊国大明神として祭られた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」