真田昌幸(さなだ まさゆき)1547年(天文16年)〜1611年7月13日(慶長16年6月4日)
戦国時代の信濃国(長野県)を本拠とした武将。
源五郎,喜兵衛。安房守と称す。弾正忠 真田幸隆の3男。
天文22(1553)年より人質として武田信玄の下にあり,武田家ゆかりの武藤姓を与えられて武藤喜兵衛と称し,信任が厚かった。
家督を継いだ兄信綱と次兄昌輝が天正3(1575)年の長篠合戦で戦死し,真田姓に復す。
同6年越甲(越後, 甲斐)同盟の成立により武田勝頼が東上野に侵攻すると, その力を背景に沼田城を攻略,同8年5月には同地を占領して北上野を武田領とした。
同10年3月の武田氏滅亡後は織田氏に属し,本能寺の変ののちは北条・上杉・徳川氏の間で帰属を変え, 上野・信濃両国の4郡を守るべく画策した。
翌年上田城を築き居城とし,上野沼田領については,同17年,豊臣秀吉の裁決により沼田城と利根郡を北条氏に渡した。
翌年,北条氏の滅亡により沼田城を回復するが,慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で西軍(石田三成方)についたため所領は没収。東軍にあった長男信之の嘆願で命は助けられ,高野山九度山に蟄居, 配所で没した。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」