大江広元(おおえのひろもと)1148年(久安4年)〜1225年7月16日(嘉禄1年6月10日)
鎌倉幕府設立期の首脳。
長く中原姓を称していたが,建保4(1216)年に改姓を許され,大江姓に変わった。みずから中原広季と大江維光の2人を父と記しているが,実父, 養父の区別はつけにくい。系図類にも実父は広季,雑光,藤原光能などの諸説に分かれる。
明経生から出身し,外記(局務)を専職とする下級貴族として朝廷実務の経験を積んだのち,30歳代半ばから幕府首脳への途に転身した。
源平の内乱の勃発とともに兄の中原親能が早くから源頼朝の陣営にあり,広元も寿永2(1183)年7月の平家都落ちののちまもなく,鎌倉に下ったと思われる。
頼朝に文筆の才を見込まれ, 公文所別当および政所別当に取り立てられた。しかし,単なる実務家ではなかった。文治1(1185)年には御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務め(たとえば源義経の有名な「腰越状」も広元宛である), 頼朝の側近としての地位を固める。そして同年,守護・地頭政策に関する献策により頼朝の信頼を高め,名実ともに首脳としての実力を発揮するようになった。
文治・建久年間(1180年代後半~90年代前半)には特に対朝廷交渉に起用され,ほぼ連年,頼朝の使節として京都に滞在し,朝廷・幕府関係の基礎作りに働いた。
首脳部内の序列を正治1(1199)年の名簿(十三人合議制)にみれば,広元は北条時政,北条義時に次ぐ第3位である。
頼朝の死後,しばらく幕府は内部抗争に揺れ動いたが,一貫して北条義時と連携する立場を守り,義時の覇権を支えた。
承久3(1221)年の承久の乱に際しては,積極的な京攻めを主張して,幕府の勝利に貢献している。
頼朝に仕えて以後,因幡守, 明法博士, 左衛門大尉, 大膳大夫,掃部頭,陸奥守などに任官し,正四位下に叙された。
子孫は長井,毛利,那波などの諸氏に分かれ,幕府評定衆の職を受け継いだ。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」