源頼朝

源頼朝(みなもとの よりとも)1147年(久安3年)〜1199年2月9日(正治1年1月13日)

鎌倉幕府の創立者。征夷大将軍。1180年代の内乱に勝利,中世の新しい政治体制を築く。

平安時代末期の武将,源義朝の3男。

平治1(1159)年13歳で平治の乱に参加,従五位下・右兵衛権佐の官位を受けたが,敗れて捕らえられ,永暦1(1160)年伊豆国に配流された。以後,の20年は史上有数の政治家として活動することになる。

治承4(1180)年5月の以仁王事件の余波を受け,生命の危機にさらされた頼朝は,8月,機先を制して平家方の武士を討ち,反平家の挙兵に踏み切る。

石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびでから状況が好転,武士の糾合に成功し,進軍して9月に鎌倉に入り,10月には富士川の戦いで平家軍を破り,瞬く間に東国に一大勢力圏を築いた。

その後しばらく,頼朝は自己の支配圏を経営し,武士との主従関係を固めることに専念する一方,後白河法皇との接触接触に努め,朝延に対する宣伝工作を行う。寿永2(1184)年平家が源義仲らによって京都から追われると,すぐに後白河法皇は使者を鎌倉に下し,ここに頼朝勢力は朝延の味方と公認された。

さらに同年11月,義仲が後白河法皇に反逆(法住寺殿合戦)するや否や,即座に後白河法皇救出の軍勢を派遣し,京都への進出を遂げた。このように頼朝は,後白河院を権威と仰ぎ,院を守護する臣下としての立場に終始一貫している。

京都占領から1年後,文治1(1185)年3月の壇の浦の戦いでは平家は滅亡し,頼朝は内乱の勝利者となった。このときなお,藤原秀衡が陸奥,出羽の2国を支配しなかば独立していたが,これも文治5年みずから出陣し,奥州藤原氏を滅ぼして,その広大な遺領を手中にした。

かくして築かれた頼朝は北条時政らの緑者や大江広元などの京都出身者を側近に用い,幕府を運営した。また,頼朝の従者(御家人)となった全国の武士によって幕府は支えられたが,特に東国御家人たちの頼朝に対する信頼は厚かった。

頼朝は幕府の本拠地を鎌倉に定め,彼自身ほとんどその地を出ることはなかった。上京は2回のみである。第1回は建久1(1190)年で,これは頼朝が後白河法皇に拝謁すること自体に目的があり,平和と秩序の再建を祝う意味があった。

このとき権大納言・右近衛大将に任じられる。第2回は後白河法皇死後の建久6年で,朝延・幕府関係を新たに固め直す必要に迫られていた。そのために頼朝は妻(北条政子),長男(頼家),長女(大姫)を同伴し,長女を後鳥羽天皇に入内させようと画策したが,この計画は長女,次女の死によって挫折している。しかし,総じて,頼朝が大局を誤らず,朝延との安定的関係を構築したことは,高く評価されるべきであろう。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」