直江兼続(なおえ かねつぐ)1560年(永禄3年)〜1620年1月23日(元和5年12月19日)
安土桃山・江戸前期の武将。
越後国与板城主樋口惣右衛門兼豊の子。幼名は与六, 名は重光ともいった。
はじめ上杉謙信に仕え,その死後,子の景勝に仕え,天正10(1582)年,名門直江の名跡を継いで直江兼続となり,景勝の側近として「執政」などと呼ばれた。
早くから豊臣秀吉に接近し,秀吉と景勝の間をとりもち,同16年,景勝が従三位に進んだとき,兼続も従五位下・山城守に叙任されている。
秀吉の側近たちとも交流があり,慶長3(1598)年の景勝の越後から会津への転封に際しては,石田三成と一緒になってこれを推進した。
主君景勝が会津120万石のとき,兼続は米沢城主として30万石を知行した。
関ヶ原の戦のきっかけとなったとされる家康弾劾の兼続の手紙が「直江状」として有名であるが,これは偽書である。
関ヶ原の戦ののち,主君景勝が米沢城30万石に減封されている。古典を収集し,米沢に建立した禅林寺に禅林文庫を設け,また出版も行った。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」