藤原定子

藤原定子(ふじわらのていし)976年(貞元1年)〜1001年1月13日(長保2年12月16日)

平安中期の皇后。

関白藤原道隆と高内侍,高階貴子の長女。

永祚1(989)年10月14歳で裳着をし,翌正暦1(990)年1月に,11歳で元服した一条天皇に入内,2月女御,従四位下に叙される。

同10月,太皇太后,皇太后,先帝皇后のいずれもが存命のため,中宮と称し立后。同4年には妹原子が東宮に入内し,兄伊周がわずか19歳で正三位権大納言に上るなど,中関白家は絶頂期を迎える。

父の陽気で闊達な性格と母の才気を受け,しかも美しかった定子の周囲には,清少納言に代表されるように,快活で格調高い宮廷女房サロンが華やかに展開された。

同5年2月,父道隆が建立した積善寺での経供養,翌長徳1(995)年2月定子の局に一家が勢揃いした場面など,絶頂期の様子が『枕草子』に詳述されている。

ところが同年4月,道隆が大酒による糖尿病と目される病のために43歳で死亡し,翌2年には,伊周・隆家兄弟が花山院狙撃事件,次いで東三条院呪詛事件を引き起こし,伊周は太宰権師,隆家は出雲権守に左遷,母方の叔父たちも処罰された。

同年5月定子は尼になったとの風評も流れ,中関白一家は自滅ともいう破局を迎える。しかし一条天皇の寵愛は変わらず,同年12月脩子内親王を出産したのち再び参内した。

長保1(999)年8月,懐妊のため三条宅に退出するに際し,藤原道長はわざと宇治別荘に赴き,公卿たちはこれに同行して中宮退出にはほとんど従わない有り様だった。

11月6日,待望の第1皇子敦康親王を出産するが,それに先立つ1日道長の娘彰子が入内,6日女御宣下があった。伊周・隆家兄弟は赦免され帰京してはいたが,皇子の後見力にはもはやなり得なかった。

翌2年定子は皇子たちを連れて参内するが,2月,彰子は中宮,定子は皇后になり二后並列となった。

12月15日媄子内親王を出産するが,道長に媚びて安産祈願奉仕を怠る僧侶の多いなか,翌16日,後産が下りず25歳で死亡。23日土葬。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」