藤原信頼

藤原信頼(ふじわらののぶより)1133年(長承2年)〜1160年2月6日(平治1年12月27日)

平安後期の公卿。

鳥羽院近臣従三位藤原忠隆と葉室顕頼の娘の子。

天養1(1144)年叙爵。土佐守, 武蔵守を歴任。

保元2(1157)年近衛中将,蔵人頭を経て,正三位権中納言右衛門督に至る。

同3年の二条天皇践祚後は『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受け,院の別当として台頭し,時の権力者である藤原通憲(信西)と激しく対立した。

信頼は大将の地位を望むが,信西によって阻止されたためこれを深く恨み,保元の乱後平清盛との処遇の差に不満を抱いていた源義朝と組みさらに反信西勢力たる二条天皇側近らを語らって,平治1(1159)年12月クーデタを起こした(平治の乱)。信西を殺害し、自ら除目を行って大臣中納言右衛門督に至る。

同3年の二条天皇践祚後は『愚管抄』の言葉をかりれば「アサマシキ程」の寵愛を後白河院より受け,院の別当として台頭し,時の権力者である藤原通憲(信西)と激しく対立した。

信頼は大将の地位を望むが,信西によって阻止されたためこれを深く恨み,保元の乱後平清盛との処遇の差に不満を抱いていた源義朝と組みさらに反信西勢力たる二条天皇側近らを語らって,平治1(1159)年12月クーデタを起こした(平治の乱)。

信西を殺害し、自ら除目を行って大臣大将となり朝廷の実権を握ったが,数日後には平清盛らの反攻にあって敗れ,六条河原で斬殺された。

『平治物語』冒頭には「文にもあらずにもあらず。能もなく芸もなく,只朝恩にのみほこり」という有名な一節があり,またその激しい性格や気性から「悪右衛門督」と称せられているが,一面的一方的な酷評を鵜のみにするのは避けるべきであろう。

とはいえ,同時代の評価は低い。しかし,例えば武蔵守時代に広隆寺本堂を新造するといった富裕な受領として果たした役割をみると,とも必要である。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」