黙庵霊淵

黙庵霊淵(もくあん れいえん)生年不詳〜1345年(至正5年)

鎌倉末から南北朝期の禅僧,画家。

元に渡り,かの地で没した。

同時期に入元した純夫全快によれば, はじめ是一と称し,鎌倉浄智寺の見山崇喜に師事して魂を霊淵と改めたという。ただしこの名は門下に「霊」の系字のつく僧の多い清拙正澄(嘉暦1年来日)によって与えられたとする説もある。

嘉暦年間(1326~29)に入元し,明州(中国浙江省)の天童山景徳禅寺で雲外雲紬の門に入り,次いで平石如砥に師事した。

元統1(1333)年以降,育王山広利禅寺に転じて月江正印に参じ,秀州本覚寺の了庵清欲のもとで蔵主となり,さらに至正4(1344)年,同寺に入った楚石梵踏のもとで首座(修行僧の首席)に上った。

至正5年ごろ,帰国する予定がありながら客死した。

義堂周信の『空華集』によれば,画僧牧鉛がかつて住んだ西湖六通寺を訪ねた際に「牧谿再来」と賞賛され,牧谿の遺印を授けられたという。

祥府紹密賛「四睡図」(前田育徳会蔵),月江正印賛「布袋図」(個人蔵), 了庵清欲賛「布袋図」(MOA美術館蔵)などが遺作として伝わる。

その高度な水墨技法は,わが国の初期水墨画人のなかで最も本格的なもので,同時代の元の画家に比べても遜色ない。

黙庵は室町時代には元の画僧と考えられており,日本人であると認識されるのは,桃山時代の画家長谷川等伯の『等伯画説』が最初である。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」