毛利輝元

毛利輝元(もうり てるもと)155324日(天文22122日)〜162562日(寛永2427日)

戦国から江戸時代初期にかけての武将。

父は隆元母は大内義隆の養女(内藤の娘)。幼名幸鶴丸。太郎, 右馬頭, 参議, 権中納言。

永禄6(1563)年父の急死によって家督を相続。同8年元服して将軍足利義輝の諱の1字をもらい輝元と称した。

祖父元就の出雲尼子氏攻撃の陣に加わり,初陣の功を立てる。

元亀2(1571)年元就死後は,叔父吉川元春・小早川隆景,一族福原貞俊・口羽通良らの輔佐を受け、尼子氏を下して中国地方一円に拡大した領国の支配強化のための政策を推進した。

天正4(1576), 織田信長に追放された室町幕府将足利義昭を備後国(福山市)に迎えて反信長の立場明らかにし, 石山本願寺を救援するなど,優勢な水軍力と石見銀山の富を背景に信長の天下統一の前に立ち塞がった。

しかし, 信長の部将羽柴(豊臣)秀吉の攻勢を受け, 機動力と兵站力で劣る毛利軍は山陰・山陽の両戦線で後退を余儀なくされ,同10, 備中国高松城()を包囲した秀吉と講和を結んだ。

本能寺の変の報に接して兵を引く秀吉軍を追撃しなかったことで輝元は秀吉の信を得たともいわれ,その後は秀吉の四国・九州制圧に先陣を務めた。

天正16年の上洛と前後して領内総検地(惣国検地)と広島築城を開始, 家臣知行地の大幅な移動を実施するなど領国支配体制の変革を進め,19年には秀吉から112万石の知行目録を与えられている。

慶長2(1597)年五大老のひとりとなり,最大級の大名として豊臣政権下で重きをなした。

5年関ヶ原の戦では,反徳川家康陣営の総大将格として大坂城に入ったが敗戦。吉川広家の斡旋により周防・長門両国のみを維持することが許された。このとき剃髪して宗瑞または幻庵と称し,隠居して家督を6歳の秀就に譲った。

父祖の築いた領国を若年で相続したいわゆる3代目であったが,信長,秀吉,家康という天下を狙った英雄たちに対抗し,幾度かの危機を乗り越えながら近世大名としての毛利家存続の礎を築いた人物といえよう。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」