近衛基通(このえ もとみち)1160年(永暦1年)〜1233年7月8日(天福1年5月29日)
平安末・鎌倉初期の公卿。
摂政・関白藤原基実の長男。近衛殿,普賢寺殿と号した。母は従三位藤原忠隆の娘。
仁安1(1166)年7歳で父を失い,基実室の平清盛の娘盛子の養子となって後見され, 嘉応2(1170)年に元服,安元2(1176)年従二位となる。
治承3(1179)年摂政・氏長者の叔父藤原基房が清盛のクーデタによって解官されると,内大臣・関白となり,翌年には安徳天皇の摂政となる。時に21歳。
清盛の娘を妻とし,寿永2(1183)年平家の都落ちに同行するが引き返し,後白河法皇の意向によって摂政となる。同年木曾義仲に追われるが翌年復帰。
九条兼実の『玉葉』によれば,基通は後白河法皇の「愛物」で,法皇は若く美しい基通を鍾愛し,都落ち以前に密会して本意を遂げたという。
基通を後鳥羽天皇の摂政としたのもその「愛念」のためで, 兼実は「君臣合体之儀」は「末代の珍事」と記す。
文治2(1186)年源頼朝の意を受けた兼実に摂政・氏長者を代わられ,摂関家は近衛家と九条家に分かれる。その後建久7(1196)年に兼実が失脚すると,源通親の後押しによって再び関白となる。
しかしすでに往年の面影はなく,藤原定家の『明月記』によれば人を寄せつけず,目でも合えば擦れ違いざまに放言する荒んだ有様だったという。
建仁2(1202)年通親の死後, 後鳥羽上皇の意向により摂政を辞す。承元2(1208)年出家。混乱の時代の政局のなかで翻弄されたひとりだった。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」