藤原忠実

藤原忠実(ふじわらのただざね)1078年(承暦2年12月)〜1162年7月31日(応保2年6月18日)

平安後期の公卿。

関白藤原師通と右大臣藤原校家の娘全子の子。祖父藤原師実の養子。知足院,富家殿と号す。

摂関家の嫡男として生まれ,寛治5(1091)年非参議,従三位で公卿に列し,同6年権中納言,永長2(1097)年権大納言に昇る。

康和1(1099)年, 早世した父師通のあとを受け,内覧・藤原氏長者となる。

同2年右大臣となり,長治2(1105)年堀河天皇の関白に任ぜられる。嘉承2(1107)年鳥羽天皇の即位とともにその摂政となり,天永3(1112)年太政大臣に任じられる。

永久1(1113)年太政大臣を辞し,鳥羽天皇元服により関白となる。

娘の泰子(のちの高陽院)の鳥羽天皇入内問題をめぐって,「魚水の契」と評されたそれまでの白河法皇との政治的連携に亀裂が生じたことにより,保安1(1120)年,内を停められ,翌年宇治に隠遁。

大治4(1129)年の白河法皇没および鳥羽院政開始とともに,朝政への復帰を果たし,その結果,時の関白である長子忠通との間に対立関係が生じた。

この対立は,龍愛した次子頼長を内覧・氏長者となしたことにより,決定的なものとなった。

保延6年出家,法名円理。忠通と頼長の対立をひとつの要因とする保元の乱(1156)の勃発の際には,頼長方の立場にはあったものの,公然たる加担の姿勢は取らなかった。乱における頼長の敗死後, 知足院に籠居。85歳で死去。

院権力の台頭により,摂関家の院近臣化が不可避となった状況下,摂関家の権門としての地位の安定化のための家領の保全・『執政所抄』の編纂にみられる故実の整備などに重要な役割を果たした。

日記『殿暦』を遺し,大外記中原師元に談話を筆録させた『中外抄』,同じく家司高階仲行の筆録による『富家語』は,院政期の説話文学興隆に大きな影響を与えた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」