鳥羽天皇

鳥羽天皇(とばてんのう)1103年2月24日(康和5年1月16日)〜1156年7月20日(保元1年7月2日)

平安後期の天皇。

堀河天皇と贈太政大臣藤原実季の娘政子の子。

康和5(1103)年8月, 堀河天皇の東宮となる。

嘉承2(1101)年, 堀川さて上皇没後の大治4(1129)年院政を開始し,崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたって朝政を主導した。

永治1(1141)年,出家して法皇となり,法名空覚を名乗る。

天皇在位中は, 祖父白河による院政の時期で,子の顕仁が,白河と待賢門院璋子との間の所生であると噂されるような状況のなか,やがて皇位継承の問題をめぐり,白河と対立を深めるようになる。

院政開始後, 白河院政末期に萌芽のみられた荘園整理政策の事実上の凍結の姿勢をより明確にして,荘園の興隆を促進し,さらに,藤原忠実の政権再登用後,摂関家を院近臣として従属させるなど,独自の政策を推し進めた。

有力な院司として,藤原顕頼, 藤原家成らがおり,また伊勢平氏を政権の基盤にとりこんだ。

崇徳天皇の譲位ののち,皇后美福門院得子との間の子体仁(近衛天皇)を即位させ,さらに近衛没後, 雅仁(後白河天皇)を皇位につけ,崇徳上皇の反発を招いた。

これは,前代同様の皇位継承をめぐる皇統内部の対立であり,鳥羽没の直後,朝廷内を二分して争われた保元の乱(1156)の要因となるものであった。

信仰面では,御願寺の造営を盛んに行い,また熊野信仰に傾倒し,参詣は前後23回におよんだ。

譲位後は鳥羽離宮を居所とし,同所に建てられた安楽寿院内の陵墓に葬られた。

院政主導の朝政および荘園公領制を確立させたという意味で,中世国家の基本秩序を完成させた天皇であったと評価できよう。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」