増田長盛(ました ながもり)1545年(天文14年)〜1615年6月23日(元和1年5月27日)
安土桃山・江戸前期の武将。通称仁右衞門。
生地については,尾張国中島郡増田村説と近江国浅井郡益田郷説がある。
秀吉に仕えはじめ200石・天正12(1584)年の小牧・長久手の戦の戦功で2万石に加増され、翌年従位下・右衛門尉に任された。
軍事より,石田三成らと同じく内政に堪能で,検地奉行などを務めている。
文禄の役では朝鮮に渡り,行政および軍務を掌握し,文禄4(1595)年,豊臣(羽柴)秀吉の死後,その居城であった大和郡山城を与えられ,20万石を領した。このとき,従四位下・侍従に叙任されたという。
慶長3(1598)年,石田三成らと共に五奉行となり,秀没後の秀頼補佐の中心的役割を担う。
同5年の関ヶ原の戦には西軍に属し,兵3000で大坂城の留守居を務め,また,関ヶ原に家臣の高田小左衛門に兵をつけて送っているが,その一方で東軍徳川家康に大坂城内の様子を伝えるなど東西双方に味方をする形をとっていた。事実,高田小左衛門は関ヶ原では実戦に加わっていない。
戦後,長盛は家康に使者を送って降を請うたが,家康は許さず,所領没収の上,高野山に追放した。のち武蔵岩槻城主,高カ情長に預けられたが,元和1(1615)年の大阪夏の陣のとき,子盛次が大坂方にあったことがわかり,自刃させられている。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」