夏目漱石

夏目漱石(なつめ そうせき)1867年(慶応3年1月5日)〜1916年(大正5年12月9日)

小説家。

本名金之助。江戸(東京)生。直克・千枝の五男三女の末子。

東京大英文科卒。父母晩年の子として疎まれ、生後すぐに里子・養子(養父は塩原昌之助)に出されるなど、生いたちは不遇だった。この原体験は肉親にさえ他者を見る非情な人間観を培い、後年の漱石文学が愛とエゴイズムの種々相を描く遠因のひとつとなった。

はじめ英文学の研究を志して五高・一高の教授を歴任、東大での講義を『文学論』(明10)その他にまとめた。その間、ロンドンに留学し、「自己本位」の立場を自覚するとともに、日本の近代化についての考察も深めている。

小説は「ホトトギス」の高浜虚子に誘われて『吾輩は猫である』(明8~8)を書いたことにはしまり、自己の文学観を具体化した『草枕』(明39)、個性に富む主人公を創造した『坊つちゃん』(明39)などで文名を得た。

やがて小説家としての自覚が深まると同時に専門作家として立つことを決意、明治40年に教職を辞して朝日新聞に入社した。

入社第一作の『虞美人草』(明40)は利己と道義の対立を描いているが、その後、日本の近代社会にひそむ矛盾や葛藤を、愛をめぐる人間心理の明暗とともに描きだそうとする方向にすすみ、『三四郎』(明41)では純朴な青年の「迷羊」に似た青春の彷徨を描いた。

次作の『それから』(明42)は姦通という極限状況を設定して性愛の倫理的根拠を問い、『門』(明43)は背徳によって結ばれた夫婦の浄福と不安を描いて、癒しがたい近代人の孤独を彷彿する。

前後して、漱石は『現代日本の開化』(明44)について講演し、近代化の外発性をきびしく批判するが、そうした同時代文明への懐疑と洞察とに、漱石文学の原点があった。明治43年、修善寺温泉で瀕死の危篤状態を体験、その間の心情は『思ひ出す事など』(明43〜44)で語られているが、人間の生と死についての認識を深めたことを機として、後期の重厚な作品の世界が開けた。

『彼岸過迄』(明45)『行人』(大1~2)『ころ』(大3)の三作はいずれも近代知識人の孤独とその苦悩を描き、人間性の深奥に潜む我執の相をあばいている。ついで『道草』(大4)では一転して実生活の体験に素材を求め、繁雑な日常性の束縛に悩みながら「自己本位」の確立に苦闘した日々が回想され、『明暗』(大5)は関係性の地平に展開する我執の百鬼夜行の図を執拗に写して、人間存在の不可知な闇にせまる主題を示した。作者の死によって中絶したが、日本の近代小説を代表する本格小説として高い評価を得ている。なお大正4年の作には他に『私の個人主義』『硝子戸の中』などがある。

高度な思想性や人間心理の洞察力など、漱石の世界はいまなお現代性を失っていない。

小宮豊隆・鈴木三重吉・芥川龍之介らの門下生にも恵まれ、大正期の主軸となった多くの後秀育てた。

その他、評論・随筆にも筆をふるい、また、友人正岡子規の感化による俳句でも一家を成した。

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」