長束正家

長束正家(なつか まさいえ)生年不詳〜1600年11月5日(慶長5年9月30日)

安土桃山時代の武将。通称は新三(または新三郎), 大蔵大輔。

近江国(滋賀県)の出身で,初め丹羽長秀に仕え,行政・財務の才能を認められて漸次重用された。

天正13(1585)年4月の長秀死去後は長秀の嗣子長重を補佐していたが,やがて秀吉に召し抱えられ行政史僚として活躍。

同15年の九州征討や同18年の小田原攻めでは兵糧や人馬の輸送のことを主監し,近江・越前その他で太閤検地の奉行を務め,豊臣家の蔵入や知行方の管理などを任務とした。

文禄1(1592)年には肥前名護屋城, 同3年には伏見城の工事を分担。同4年6月近江水口城主5万石,次いで12万石に加増され、従四位下侍従に叙任。

慶長3(1598)年7月五奉行の一員に列せられる。

また正家は奉行のほかに右筆をも務めていた。

同5年の関ヶ原の戦では西軍(石田三成方)に属し,6月に徳川家康が会津遠征に出発するとまもなく水口城を出て大坂城に入り,次いで安国寺恵瓊と共に伊勢に出陣して阿濃津城攻めに加わった。

9月15日の決戦では南宮山に陣し,三成の敗北を聞くと水口城に逃れた。

しかし東軍の池田長吉に攻められ、9月30日,城を開いて自害。その首は10月1日京都三条河原にさらされた。墓所は近江安乗寺にある。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」