川端康成

川端康成(かわばた やすなり)1899年(明治32年6月14日)〜1972年昭和47年4月16日)

小説家。

大阪府生。栄吉・ゲンの長男。東京大国文科卒。父栄吉は開業医。

明治34年父、翌年母、二人とも肺病で死去。川端は父母の顔を知らない。以後祖父母に育てられ、明治三十九年祖母、大正3年、中学3年の5月祖父死去、孤児となる。病床の祖父を写した『十六歳の日記』(大14発表)が残されている。以後親戚の世話を受け、とかく他人に対して素直になれない、反面愛情に対して敏感過ぎるほど敏感な「孤児根性」が深まる。

一高から東京帝大に進み、大正10年、友人と第六次「新思潮」刊行、『招魂祭一景』を発表し認められる。同年、十六歳の少女伊藤初代(ちょ)に対する手痛い失恋を体験。母体体験の欠如、孤児根性、失恋体験は川端文学の基調を形成する上で大きな役割を果たしている。

大正13年卒業、同年10月横光利一・片岡鉄兵らと「文芸時代」を創刊。新感覚派と呼ばれる。プロレタリア文学が客体を重視するのに対し、未来派、ダダイズム等前衛芸術の流れを引き主体の躍動によって万物と相わたろうとする傾向が強い。

川端の作品では第一創作集『感情装飾』(大15)所収の掌の小説にそうした傾向は顕著だが、一方『伊豆の踊子』(大15)のような抒情的作品も書いている。新感覚派的傾向は『浅草紅団』(昭4~5)の頃まで続くが、『針と硝子と霧』(昭5) 『水晶幻想』(昭6)以後、意識の流れの手法を取り入れ精神の不安を表現する傾向が目立ち、『抒情歌』(昭7) 『禽獣』(昭8)『虹』(昭9~11)としだいに虚無が深まる。ここにはプロレタリア文学、モダニズム文学共に圧殺される時代の成り行きの反映がある。『雪国』(昭10〜22)以後、虚無は虚無としてその中に安定するような境地に至り、戦中は苛酷な運命の中での可憐な命の瞬きに愛隣の日差しを注ぐような作品が多い。

『年の春』(昭15)『ざくろ』『東海道』(昭18) 『十七歳』(昭19)等。戦後「私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。」(『島木健作追悼』昭20)と述べ、『住吉』連作(昭23〜46)等で伝統美への傾斜を強めながら、しかし昭和二十四年頃から多産期に入り、『千羽鶴』(昭24〜26)『山の音』(昭24〜29)『名人』(昭26〜29)の三名作のほか、『虹いくたび』『舞姫』等風俗・中間小説の創作も旺盛になった。

昭和29年の『みづうみ』から又新しい傾向に入った。それまでの作が破倫に瀕しつつも結局はそこから立ち直る抑制の精神を基調としたのに対し、あえて破倫(魔界)に踏みこみ、その果てに見える真実をつかもうとする傾向が目立ってきた。『眠れる美女』(昭35〜36)『片腕』(昭38〜39) 『たんぽぽ』(昭39〜43)等がそうである。その間、昭和三十二年日本ペンクラブ会長として国際ペンクラブ東京大会を主催、昭和三十六年文化勲章受章、昭和43年ノーベル文学賞を受賞した。

昭和47年4月仕事場でガス自殺を遂げたが、事故死との説もある。鋭い感性により常に時代の前衛的位置にあった。一見平明な見かけの底に限りない深さを宿した作が多い。

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」