中島敦

中島敦(なかじま あつし)1909年(明治42年5月5日)〜1942年(昭和17年)12月4日)

小説家。

東京生。田人・チヨの長男。東京大国文科卒。中島家は代々江戸日本橋新乗物町の商家(駕籠の製造と販売)であったが、祖父慶太郎に至って家業を廃て中島熊山と号して幕末から漢学塾を開いた。伯父3人は漢学者、父は中学校漢文教員。母も小学校教員であったが離婚により1歳未満で生別。のち2人の継母を迎えるが死別し、いずれも折合いは悪かった。

父の転勤で朝鮮半島に渡り、京城中学を4年修了で一高文甲に3番で入学。一高時代習作を六篇「校友会雑誌」に発表するが、以後昭和17年まで活字になった作品はない。

昭和5年東大に進むが、学生時代及び卒業後の数年間は専ら享楽主義者としての生活を楽しむ。東西古今の作品を乱読渉猟する一方絵画・音楽・ダンス・麻雀・将棋・旅行・園芸等に熱中し、とりわけ荷風・潤一郎に傾倒して卒業論文には『耽美派の研究』を書く。

昭和8年4月から横浜高女の教師となり、同月前年に結婚していた橋本タカに長男桓が生まれた。

昭和12年頃、青春の終焉期を迎えて感激の源泉の酒渇と感性の衰弱から享楽主義が破綻し、また持病の喘息が年々悪化することで短命の自覚を余儀なくされ、そうした困惑・焦燥・悔恨の心象風景を『狼疾記』『かめれおん日記』に描き、7つの歌集にうたった。

昭和16年6月喘息の治療を兼ねて南洋庁国語編集書記としてパラオに単身赴任するが却って健康を害し、翌年3月に帰国。

師事していた深田久弥の推災で『古譚』(『山月記』と『文字禍』)が「文学界」(昭17・2)に掲載されて文壇にデビュー。次いで『光と風と夢』も同誌(昭17.5)に発表されて芥川賞候補となり、作家として立つことを決意し創作に専念するが、昭和17年12月宿病の喘息で病没。死後遺稿として『弟子』(昭18) 『李陵』(昭18)が発表された。

その文学は中国古代やオリエント・南洋など、始原的・根源的状況において生のありようを追究するところに特色がある。

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」