島津斉彬

島津斉彬(しまづ なりあきら)1809年11月5日(文化6年9月28日)〜1858年8月24日(安政5年7月16日)

幕末の薩摩(鹿児島県)藩主。

同藩島津斉興の長子,母は鳥取藩主池田治道の娘周子。曽祖父重豪の庇護のもとに育ち,高野長英,箕作阮甫らの蘭学者を招いて知識の蓄積に努めた。名声は次第に高く,「実に大名第一番の御方にして,水戸烈公,鍋島閑叟,山内容堂などのもっとも及ぶ所にあらず」とは平松慶永の言。

弘化3(1846)年フランス艦が沖縄に来航し開国を要求,その善後処理のため帰国。折から藩内には異母弟久光の擁立を謀る,その生母由羅(斉興の側室)の一派があった。

嘉永2(1849)年12月,同一派の除去を画策したとして,高崎五郎右衞門,近藤隆左衛門ら切腹13を含む50名余が処罰された(お由羅騒動)。由羅の一派の策謀を防止するため,斉興に隠居を強要,同4年第11代藩主となる。年43歳。

以来,先に処罰された者を復権させつつ藩政改革を推進。鹿児島城下に反射炉,高炉,鑽開台を設け銃砲を製作,またガラス,刃剣,農具,皮革等々の製造所を付置し集成館と名付けた。洋式砲術を採用,洋式艦艇を建造。藩校造士館,演武館の改革を構想し,遊学を奨励した。

嘉永6年6月ペリー来航。海防充備と徳川斉昭の幕政参与を建議。将軍徳川家定の継嗣選定については徳川慶喜を支持。一門島津忠剛の娘篤姫を近衛忠熙の養女にして家定の夫人とする。日米修好通商条約調印には賛成,その前提として慶喜の継嗣実現を要望,安政4(1857)年西郷隆盛を江戸に派遣,篤姫を通じてその実現を謀らせ,翌5年朝延へも工夫したが失敗。同7月8日,鹿児島城下に兵の調練を検閲,直後に急な病を得て没する。順聖院と諡された。

斉彬の死の直前の意志は不明である。だが以降の薩摩藩の行動は斉彬の遺志継承の名の下に進められた。久光の率兵上洛も有馬新七の挙兵計画も,そして順聖院の遺志として武力討幕が決定されたのだった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」