松平容保

松平容保(まつだいら かたもり)1836年2月15日(天保6年12月29日)〜1893年(明治26年12月5日)

幕末維新期の会津藩(福島県)藩主,京都守護職。

幼名珪之允。祐堂,芳山と号した。美濃国(岐阜県)高須藩主松平義建の第6子で,尾張(名古屋)藩主徳川慶勝,桑名藩(三重県)藩主松平定敬は兄弟。江戸四谷の藩邸に生まれる。

弘化3(1846)年会津藩主松平容敬の養子となり,嘉永5(1852)年,その死去により家督を継いだ。

万延1(1860)年に桜田門外の変が発生すると水戸藩幕府の間に立って調停工作を行い,一躍名を知られるに至った。

文久2(1862)年京都守護職に任命され,以後京都にあって孝明天皇の厚い信任のもと,禁裏守衛総督と京都所司代にそれぞれ就任した一橋慶喜,松平定敬と共に,いわゆる一会桑政権の中核として京都の治安維持と公武一和の実現に努めた。

その過程で尊攘派勢力との対決を深め,8月18日の政変, 禁門の変では同勢力打倒の立役者となる。

その後,朝廷内実力者の関白二条斉敬,国事扶助中川宮朝彦親王らとの結びつきを一層強め,慶応1(1865)年10月には長年の懸案であった条約勅許を勝ち取ることに成功,その一方で長州征討の実施を強硬に主張した。

しかし翌年8月, 征長軍に加わっていた肥後,久留米などの九州諸藩兵が戦線を離脱したのを受けて将軍の名代として出陣することが決定していた慶喜が,自らの出馬を中止し解兵を決意するとこれと決別。

以後,再三にわたって守護職の辞任と会津への帰国を朝幕双方に要請し続け,事実上京都政界の第一線から退いた。

同3年10月の王政復古クーデタで守護職を追われ,戊辰戦争では最大の逆賊との烙印を押され,降伏後は因幡藩(鳥取県)に幽囚された。

赦免後は日光東照宮宮司などを歴任。

人となりは温厚誠実で,徳富蘇峰の言を借りれば「余りに真面目で政治家ではなかった」ため,藩政の舵を器用にとることができず,結局会津藩を挙げて貧乏くじを引かせる結果となった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」