松平慶永(松平春嶽)

松平慶永(まつだいら よしなが)1828年10月10日(文政11年9月2日)1890年(明治23年6月2日)

幕末の福井藩主。

越前守,大蔵大輔, 隠居後は春岳の号を通称に用いた。田安斉信の8男。

天保9(1838)年の藩主就任後, 天方孫八, 中根雪江ら側近に支えられつつ,窮迫していた藩財政再建に向け,倹約や藩札整理を中心とする天保改革を断行。

その一方で, 西洋列強の動きに危機感を強める徳川斉昭ら有志大名と交流を深め,ペリー来航時には、名門の家柄を利して、徳川慶喜を将軍継嗣に据えて幕政改革を推進せんとする運動の中心にあった。

しかし、大老井伊直弼と意見が合わず,安政5(1858)年幕府から隠居・謹慎を命ぜられ、松平茂昭に家督を譲っていったんは政界を離れた。

文久2(1862)年、政事総裁職として復帰,幕政の枢機に携わる。参勤交代制の緩和や将軍上洛など,幕政改革, 公武合体の実現に力を尽くした。

その目指すところは,朝廷をテコに,将軍・譜代大名中心の伝統的な幕政のありかたを相対化し,新たに親藩・外様の有力諸侯を包み込む形で将軍権力を再編することであった。

しかし,尊王攘夷運動の台頭によってその構想はついえ,同3年政事総裁職を辞任した。その後も,四賢侯のひとりとしてたびたび上洛し諸侯会議に加わるが,すでに政権構想実現の機なく,王政復古を迎える。

この間藩政の指揮もとり続け,鈴木主税, 橋本左内や熊本から招いた儒学者横井小楠らを次々に登用して,軍制や財政の変革に成果を収めた。

明治政府のもとでは,徳川宗家の救解に努める一方,議定,内国事務総督,民部卿, 大学別当などを歴任。

明治3(1870)年一切の公職を退き,文筆生活に入る。

性は誠実謹直で明敏とされ,名君のきこえが高いが, 茂昭への書簡からは口うるさい隠居という一面を垣間見ることもできる。親交のあった諸侯はその顔立ちから「鋭鼻公」という愛称を用いた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」