石川五右衛門

石川五右衛門(いしかわ ごえもん)生年不詳〜1594年10月7日(文禄3年8月23日)

安土桃山時代に京都三条河原で釜茹でにされた盗賊。

親子部下ともに死刑となった。同時代をさわがせた盗人であったことと,釜茹でにされたことの2点を核として,のちの時代の民衆の空想がさまざまの物語を育てた。

すでに天下が豊臣から徳川に移っていたということが,空想を自由に発表することをゆるし,石川五右衛門は天下をくつがえそうとたくらむ大望をいだく行動家とされた。

また泥棒学校の主宰者ともいう。浄瑠璃では元禄以前にすでに五段構成の「石川五右衛門」があり,歌舞伎劇にも重要な作品があらわれた。「春のながめはあたひ千金とはちひさなたとへ。五右衛門が目からはこのあたひ万両」と天下様秀吉を相手に南禅寺の楼閣上でみえをきる五右衛門を,歌舞伎は今日までつたえている(「金門五山桐」)。

釜茹でのほうは,落語や川柳にされたり,小説となったり(井原西鶴『本朝二十不孝』2/1),それだけでなく,五右衛門風呂という鉄製の浴槽の名となって,江戸時代の末から明治大正時代昭和をへて平成の現在に至るまで,日本人の日常生活に姿をのこしている。鉄の浴槽の下に平たい板をふみしくのは,五右衛門がこどもをふみしいたことの見立て。

大正時代には上司小剣,昭和戦後には檀一雄が小説の主人公とした。社会主義思想をうけつぐ上司小剣は,おさない五右衛門に「かきはかきのかきじゃ」といわせて,自然のものへの所有権を否定して法の体系を根本からひっくりかえす考え方の萌芽を示した。

「五右衛門はなまにへの頃一首よみ」と川柳にあるように,彼は釜茹でにされるに当たって「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種子は尽くまじ」という辞世をよんだと語りつたえられており,これもまた今日しばしば日常の生活に引用されていきている。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」