足利義明(よしかが よしあき)生年不詳〜1538年10月29日(天文7年10月7日)
戦国時代の武将。
古河公方足利政氏の次男。幼少時に僧籍に入り愛松王,のちには八正院空然と称し,鎌倉府支配体制の一翼を担った雪下殿(鎌倉鶴岡八幡宮若宮別当)の地位にあった。
永正期(1504~20)前半,父政氏, 兄高基の抗争が続くなかで次第に政治的自立を果たし,宗斎,次いで還俗して義明と名乗った。
当初兄高基と同一行動をとったが, 永正13(1516)年ごろから一転して父政氏と結び,高基と対立。その間,居所は下総高柳の地にあったが, 上総真里谷武田氏の要請により同15年7月ごろ下総小弓に入部し,これを機に道号道哲を称した。
以後南関東諸氏統合の象徴として小弓公方と尊称され, その権力を浸透させる一方, 古河公方高基との抗争を激化させた。
その関係は高基の子晴氏にも引き継がれたが,その権力の限界を象徴するかのように,天文7(1538)年下総国府台において,晴氏の命を受けた北条氏綱軍と交戦し,乱戦の最中孤軍奮闘, 敗死した。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」