足利直義

足利直義(あしかが ただよし)1306年(徳治1)〜1352年3月2日(文和1/正平7年2月16日)

南北朝時代の武将。

父は貞氏,母は上杉清子。足利尊氏の同母弟。本名忠義。兵部大輔,兵部大輔,左馬頭,相模守り,暦応1/延元3(1338)年左兵衛督,康永3/興国5(1344)年従三位に叙任。三条殿,錦子路殿と号す。

元弘の乱には尊氏と共に蜂起。正慶2/元弘3(1333)年12月成良新王を擁して東下に,関東10ヶ国を管領,相模の国守を兼ね小型の幕府と評価される。

建武2(1335)年7月の中先代の乱では三河に敗走するが,その際鎌倉幽閉中の護良新王を殺害した。同年8月尊氏と共に鎌倉を回復,10月に尊氏が建武政府に反し新田義貞の攻撃を受けると協力して撃破した。このとき尊氏に東国の本拠地化を主張するも容れられず共に西上し,翌年11月の室町幕府成立に伴って執政の地位につく。

兄尊氏が将軍として侍所,恩賞方を管轄し,守護の補任と諸国武士に対する新恩の宛行を主に司る一方で,直義は引付方を管轄して裁判権を掌握,大小の政務を親裁した。

この分治について,尊氏は主従制的,直義は統治権的支配権を分担したとみるが通説だが,直義は軍勢催促状,感状など軍事に付随する文書も発給しており,事実上尊氏より政務を譲り受けていたとする見方もある。

直義は鎌倉幕府的秩序を重視し,東国武士や寺社本所権力の支持を得た。しかし,荘園領主と衝突せざるをえない畿内近国の急進的武士層は直義の保守路線に失望,執事高師直に望みをつないだ。これを背景に観応の擾乱が勃発する。

貞和5/正平4(1349)年5月養子直冬を探題として西下させた直義は,閏6月師直を失脚させるが,同年8月師直の反撃で執政の座を失い,やがて出家して恵源と称した。しかし直冬が九州で勢力を蓄え各地の直義方が蜂起するに至り,観応1/正平5年10月直義は大和に挙兵し,翌年2月尊氏と講和して師直を誅した。

その後、尊氏の子義詮の後見という名目で政務に復帰。同年7月再び兄と不和になり,北陸へ出奔して鎌倉に入るが尊氏の追撃に敗れ,翌年2月鎌倉に毒殺された。人望に欠くところはあるが,室町幕府の基礎を築いた立役者のひとりであり,尊氏にも劣らぬ大政治家といえる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」