源俊頼(みなもとのとしより)1055年(天喜3年)〜1128年9月(大治3年4月)
平安後期の歌人。
父は正二位大納言源経信。母は土佐守源貞亮の娘。子の後重,俊恵,俊盛,祐盛,待賢門院新少将も勅撰歌人。
父経信に和歌を学ぶとともに,10歳代のころ富豪橘俊綱の猶子となり,伏見亭歌会に集う歌人たちに影響を受けたかと想像される。
承暦内裏歌合には楽人として奉仕。『後拾遺集』にも入集しなかった。
寛治3(1089)年四条宮扇合に出詠以後, 寛治7年郁芳門院根合, 寛治8年高陽院七番歌合などの晴儀に相次いで出詠。
嘉保2(1095)年には父経信の大宰権師赴任に同行。
承徳1(1097)年父の死により帰京。上京の途次,悲嘆哀傷の歌を多く遺している。その後,堀河天皇内裏歌壇で活躍。源国信・師時,藤原仲実・俊忠・公実などが主催する歌会,歌合に参加し, 康和4(1102)年堀河院艶書谷に出詠。『堀河百首』の作者に入り,企画,出題に深く関与したものと推定される。
その一方で官途には恵まれず,近衛少将,左京権大夫を経て従四位上木工頭を極官とする。
堀河天皇の死後,『永久百首』に出詠。内大臣藤原忠通家の歌合にもたびたび参加し,判者をも務めている。
また,永久4(1116)年実行家歌合, 元永1(1118)年雅定家歌合, 同年人麿影供など,藤原顕季が主催, 後見する歌会, 歌合への出詠も多く,保安3(1122)年無動寺歌合,天治1(1124)年奈良花林院歌合などの判者を務め,藤原基俊と拮抗しつつも歌壇の第一人者として旺盛な活動を続けた。
天治1年には白河法皇の命を受けて『金葉集』を選進。2度の改編を経て三奏本が嘉納された。晩年には家集『散木奇歌集』を自選。歌論書に『俊頼髄脳』がある。
院政期を代表する大歌人で,藤原俊成・定家ら後代歌人への影響も甚大である。
父経信譲りの長の高い叙景歌から卑俗な誹諧歌に至る多様な風体を詠み分け,用語, 素材の拡充にも積極的で,万葉語,俗語, 奇語を盛んに摂取し,故事,説話への関心も高かった。
秀歌の要件として「珍しき節」を重視し(『俊頼髄脳』), 「我ハ歌ヨミニハアラズ。歌ツクリナリ」と任じていたというが(『顕昭古今集注』),(エモイハヌ詞ドモヲトリアツメテキリクム」自らの詠法には少なからぬ自負を抱いていたと思われる。連歌をも好んだ。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」