江戸時代初期、1637年12月11日〜1638年4月12日(寛永14年10月25日〜寛永15年2月28日)に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれる。
1637年〜1638年、肥前国島原地方と肥後国天草島の農民が起こした6ヵ月間にわたるキリシタン教徒を中心とした農民一揆。この地方は以前キリシタンが栄え、当時もひそかにキリスト教を信仰する農民が多かった。
1637年、相次ぐ凶作にもかかわらず、島原藩主松倉氏の過酷な年貢取立てが続いたため、農民の不満は高まり、16歳のキリシタン益田時貞(天草四郎時貞)を首領とした総勢3万7000といわれる島原と天草の農民は島原の原城にたてこもった。
幕府は初め板倉重昌を派遣し九州諸藩の藩兵を使って原城を攻撃したが、重昌は敗死し、失敗。幕府は新たに松平信綱を派遣した。
一揆勢は当初から十字架を中心に士気が上がったが、信綱の包囲作戦にあい糧道を断たれ疲弊したところを12万4000の征討軍の総攻撃にあい、原城は陥落、最後は時貞を含め参加者は皆殺しとなった。幕府はこの乱を機会にキリシタン弾圧を強化し、1639年ポルトガルとの通商を断ち鎖国に入っていった。