聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし)574年(敏達天皇3年)〜622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

飛鳥時代の王族。

父(用明天皇),母(飛鳥時代の王族。父(用明天皇),母(穴穂部間人皇女)両系とも蘇我氏の血統となった最初の王子である。

聖徳太子という呼び方は,天平勝宝3(751)年よりのちみえる。字名は厩戸王子。厩で生まれたという伝説は,中国で伝わったキリスト教の一派である景教の影響か,といわれる。

史上には,両祖母の長兄大臣蘇我馬子が,用明天皇2(587)年に大連物部守屋らを討滅した戦陣の中の,14歳の姿が初見である。当時の政界を開名派として主導した馬子の権勢のもとで成長し,仏教を高句麗からの渡来僧慧慈に,儒教経典を百済から渡来したとされる博士覚哿に学んだ。

前大后額田部王女の推古天皇1(593)年の即位(推古天皇)のときから皇太子・摂政となったとされるが,当時の宮廷制度には皇太子や摂政の他位はない。むしろ留意されるのは,推古天皇9年に斑鳩宮に移住したことであろう。ここに,飛鳥の小墾田宮に額田部王女,約20km北方の斑鳩宮に廐戸王子,両方を大臣蘇我馬子が後見する形態の政権が出現した。

この政権は,初めて計画した新羅遠征が失敗すると,推古天皇8年に次いで同15年,同22年に遺隋使を送り,新羅に外交的威圧を加えた。このときの前2回の遺隋使とも,倭国王は多利思比孤であると述べている。これを,女王は未開国の習いとみられたのを避ける遺隋使の機転の言いとする説もあるが,倭国王の妻,太子も同時に述べている。

多利思比孤は廐戸王子,妻は菟道貝鮹王女,太子は田村王子(のちの舒明天皇)と解かされる。さらに,のち廐戸王子の死去の年には,斎王は,酢香手姫王子が退化した。7世紀後葉までの斎王は,男王の代だけ伊勢大神のもとへ送られていたからであった。要は,廐戸王子は大王であった。それも外交面に限ってのことではなく,推古天皇11年に冠位十二階を,翌年には憲法十七条の制定を主導し,推古天皇28年には馬子と議って天皇記・国記も編纂した。

廐戸王子は,死後1世紀余りで早くも法王とか法王大王として,信仰の対象とされた珍しい人物である。法隆寺の昭和資材帖作成の調査で金堂釈迦三尊像の台座裏に発見された「相見兮陵面 楽識心陵了時者(相見えよ陵面に 識心陵了る時を楽(ねが)う者は)」の墨書は,造像関係者の廐戸王子への追慕を示す早い時期の新資料といえる。これは,廐戸王子自身が,生前に「世間虚仮 唯物是真」と理解し幾つも造寺・造仏を発願したとされるようにされるように仏教に傾倒していたことと,あい呼応するものであろう。ただ、その先述とされる『三経義疏』のうちには中国の敦煌文書に同文のものがあり,廐戸王子自らの選述とみる説は揺らいでいる。

しかし,聖徳太子信仰は,聖徳の語にはすでに道教的聖人観の影響があり,また,その上宮王家の子孫一族が皇極天皇2(643)年に絶滅させられた悲劇性への同情からも,いっそう強まっていった。上宮聖徳法王帝説をはじめ多くの伝記が書かれ,鎌倉期以降には太子童形像や聖徳太子絵伝が流行し,現在も太子信仰は根強い。

墓は,大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内。参考追跡に法隆寺や奈良県桜井市の上之宮遺跡がある。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」