宇田川玄真

宇田川玄真(うだがわ げんしん)1770年1月24日(明和6年12月28日)〜1835年1月2日(天保5年12月4日)

江戸後期の蘭学者、医学者。

伊勢生まれ。本姓は安岡、号は榛斎。

杉田玄白に才を認められてその娘婿となったが、放蕩のため離縁となって生活に困り、稲村三伯らのはからいで蘭書翻訳に従事、三伯の蘭和辞書『ハルマ和解(江戸ハルマ)』の編集に協力した。寛政9年(1797年)宇田川玄随の没後、三伯のすすめで宇田川家を継ぐ。

津山藩医として江戸詰のかたわら蘭方医学塾を開き家学の発展をはかるとともに藤井方亭、箕作阮甫、坪井信道らの蘭学者を育てた。

文化10年(1813年)から17年間にわたって幕府天文台の蘭書和解御用として出仕。多くの翻訳書を残し、文政5年(1822年)には玄随が企図した『遠西名物孝』を凌駕する『遠西医方名物孝』36巻を養子の宇田川榕菴の協力の協力で刊行、同書はのち『同補遺』9巻を加え、西洋薬物書の百科事典的存在となって明治期に至まで利用された。また和漢にもある薬物の西洋医学的使用に便する『和蘭薬鏡』を編訳、これはのち『新訂増補和蘭薬鏡』18巻として新生した。

一方西洋解剖学の新動向を紹介する『遠西医範』30巻の簡略版『西説医範堤綱釈義』3巻を刊行して、腺、膣、膵、靭帯など数々の新造語を創案、易な文体のせいもあってベストセラーとなった。この付図として我が国最初の銅版解剖図『内象銅版図』がある。

玄随訳の『西洋内科撰要』を増補して訳語も補訂した『増補重訂内科撰要』18巻や、日本最初の西洋小児科書(いずれも未刊)の訳述もある。また大槻玄沢と共にショメールの家事百科全書『厚生新編』を訳した。

致仕後は家督を榕菴に譲って江戸深川に隠居。没後は浅草誓願寺塔頭長安院に葬られ、関東大震災後に多磨霊園に改葬された。さらに平成1年(1989年)津山市西寺町泰安時に移された。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」