杉田玄白

杉田玄白(すぎた げんぱく)1733年10月20日(享保18年9月13日)〜1817年6月1日(文化14年4月17日)

江戸中期の蘭方医,瘍医(外科医)。『解体新書』の訳業によって著名。これはわが国で刊行された初めての蘭書の訳書である。

名は翼,字は小鳳。玄白は通称。父は若狭国(福井県)小浜藩外科医,杉田甫仙。生まれは江戸小浜藩邸。

難産だったため,生まれたときは死んだものとして布に包んで置かれ,周囲は母親を救おうとしたが結局死亡,改めて子を見ると生きており,男子たったので愁眉を開いたという。18歳から幕府医官西弦哲について蘭方外科を学び,また宮瀬竜門に経史を学ぶ。

宝暦3(1753)年小浜藩医となる。39歳の明和8(1771)年3月4日,江戸千住骨ケ原(小塚原)で腑分(解剖)に立ち合う。この日以降,ドイツ人クルムスの解剖学書のオランダ語版,当時の通称『ターヘル・アナトミア』の翻訳を思い立ち,前野良沢,中川良沢,中川淳庵らと共に訳業に励む。3年の日時を得て完成,安永3(1774)年『解体新書』刊行。

享和2(1802)年『形影夜話』を書く。文化7(1810)年刊行。同12年,83歳で『蘭学事始』成る。他に『大西瘍医書』『犬解嘲』などの著和書がある。学塾天真楼を経営し,大槻玄沢宇田川玄真らを育てた。家業は養子伯元が継ぎ,実子立卿は別家を立てた。

玄白は平賀源内などと同時代の人であり,家業が蘭方外科だったこともあって,蘭学に興味を持った。明和3年,オランダ商館長の江戸参府中,前野良沢に連れられて大通詞西善三郎に会い,オランダ語の難しさを知って学習を一時諦めた。

明和8年春,中川淳庵が『ターヘル・アナトミア』(およびバルトリンの解剖書)をオランダ商館長の定宿から持参し,玄白はそれを藩に買ってもらう。その図が精細でおそらく実を写したものであることを知り,実物と比較してみたく思っているところへ,骨ケ原での腑分の知らせを受け,淳庵,良沢にも知らせ,この書を持ってきており,その奇遇に響く。帰り道にこの書を翻訳すればきわめて有益であろう,善は急げと,翌日から良沢の家の集まり,訳業が始まる。その苦労,子細は『蘭学事始』に感動的に記される通りである。このあとわがくにの蘭学は急速に進み,玄白は蘭学の祖として有名になる。『解体新書』で導入された訳語に神経,軟骨などがあり,わが国の西洋医学・解剖学の基礎を築いた。

玄白は実地に優れた人物であることは,何人かの人たちと共同し,当時としては幕府に遠慮のあった蘭書の訳業を,短期間に成就させたことでもわかる。蘭学に多大の貢献をしたことは疑いを入れないが,しばしば玄白の事跡を日本の解剖の始まりとする誤解がある。わが国最初の官許の解剖は京都の山脇東洋により,骨ケ原腑分の17年前,宝暦4(1754)年のことである。玄白はこれをよく知っていた。墓所は江戸芝の天徳寺の塔頭栄閑院。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」