大久保利通(おおくぼ としみち)1830年9月26日(天保1年8月10日)〜1878年(明治11年)5月14日
幕末明治期の政治家。
薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、利通という名前の他に、正助、一蔵などとも称し、甲東と号した。
アヘン戦争が始まったのは利通が11歳のときであり、西洋列強の東アジア進出という状況のなかで、利通は成人していった。西洋の脅威に対抗できる日本を建設するというのが、利通の終生の課題であった。当時薩摩藩では、島津斉彬派と久光派とが争い、前者に加わって敗れた利通の父は流刑で処せられ、利通は若くして深刻な挫折と辛酸を経験した。利通は、冷徹なリアリズムと周到な準備、そして果断な実行力の点で、同世代の指導者の中で際立っていたが、この卓越した指導力は、生来の資質が青年期からの試練に磨かれ、形成されたのであろう。
薩摩藩で利通は、西郷隆盛らと組んで急進的改革派を組織する一方、久光派の支配する藩庁の要職を占めるようになる。そして雄藩である薩摩藩の力を背景に、文久2年(1862年)以降中央政局に進出していった。当初利通は、幕府・朝廷の協力体制(公武合体)による国力の結集が最善であると考えていたが、姑息・無力な幕府の実体を知ると、これまで対立していたもうひとつの雄藩である長州藩と和解・提携(薩長同盟)し、倒幕・王政復古に踏み切り、慶応3年12月(1868月1月)新政府の樹立(明治維新)に成功する。
しかし発足した新政府は、出身・利害・考えを異にする雑多な集団の脆弱な連合に過ぎなかった。薩摩藩の指導者として新政府の中枢に入った利通は、列強に対抗できる強力な集権体制の樹立に全力を傾注した。版籍奉還(1869年)、廃藩置県(1871年)を断行して列藩割拠体制を破壊し、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱(1876年)、西南戦争(1877年)といった一連の士族反乱を容赦なく鎮圧し、天皇の権威の強化をはかり、大蔵卿や内務卿を歴任して官僚制度の整備に努めた。
明治4年(1871年)〜明治6年に岩倉使節団の副使として欧米を歴訪し、その政治・経済の実情を学んだ利通は、産業化を推進すること(殖産興業)の決定的重要性を深く自覚し、帰国後その条件整備に専念した。産業化(特に後発国における)の初期段階では、政府の指導が不可欠であることを確信した利通は、殖産興業政策の推進をはかり、そのためにも効率的集権体制の整備に努め、また政府の財政基盤を固めるため地租改正・秩禄処分を断行した。同時に利通は、民衆の自発的努力なしには産業化の成功がありえないことを理解しており、教育の普及と地方制度の整備に努めた。
民主制を長期的目標とし、しかし当分は「君民共治」が現実的だというのが、利通の判断であった。対外的には無用な摩擦をさけるため征韓論に反対すると同時に、主催確保のためには台湾出兵(1874年)をためらわなかった。東アジアにおける開発独裁の最初の実践者であり、それ故に西洋化と専制に反対する士族反対派に暗殺(東京紀尾井町。犯人は石川県士族島田一良ら6人)されたのである。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」