正親町天皇

正親町天皇(おおぎまち てんのう)1517年6月18日(永正14年5月29日)〜1593年2月6日(文禄2年1月5日)

戦国・安土桃山時代の天皇(在位1557~86)。

後奈良天皇の第2皇子。諱は方仁。母は参議万里小路賢房の娘栄子。

天文2(1533)年12月親王宣下,元服。

弘治3(1557)年10月父天皇の没を受けて践祚。葬礼費は三好長慶が洛中棟別を課して徴収したが,遺骸放置2カ月余りにおよび,いわゆる皇室式微を印象づけた。

即位礼も財源難で難航が予想されたが,永禄2(1559)年2月天皇は安芸吉田城主毛利元就に献金を依頼,同4月元就は銭2000貫を献じ,翌年5月即位礼が挙行された。

毛利氏はこの献金を自負し,献上翌月に備中を平定した際には「御即位申沙汰仕り候によりて奇特に切り勝ちたり」と奏した。大名の意識に天皇への求心性があったと思われる。

従来大名と天皇の間に政治性はないとみられていたが,正親町は今川義元に三河守を勅許し,織田信長には同10年11月に今後の軍事行動を鼓舞する綸旨を出すなど,注目すべき政治力を発揮している。

信長入京後はキリシタンや山門領の問題で対立する事件もあったが,両者の関係はおおむね良好で内裏修理,朝儀復興が進んだ。

信長の出征に当たっては戦勝祈願を行い, 戦地に勅使を派遣するなど信長の忠実な司祭として行動,また元亀1(1570)年の江濃越(近江,美濃,越前)一和, 天正1(1573)年の足利義昭との和睦に際しては勅命を出して信長の窮地を救っている。

しかし同4年興福寺別当の人事を巡り対立。伝奏蟄居という処分者を出し,以後信長は正親町を忌み嫌い,皇子誠仁親王への譲位を望んでたびたびこれを要請したが老僧な天皇は拒否を貫いた。

同10年の武田征討後,信長の要請を認めて将軍任官を勅許したが実現せず,その後を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は長久手の敗戦により関白就任の途を選び,これも勅許した。尊皇家秀吉との間は良好であった。

文禄1(1592)年秋の後陽成による秀吉の渡海論止は当時上皇であった正親町の意志とみられる。戦国の転変の世を生き抜き,皇家の権威を維持した天皇として重要。 (今谷明)

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」