土方歳三(ひじかた としぞう)1835年5月31日(天保6年5月5日)〜1869年6月20日(明治2年5月11日)
幕末維新期の新選組副長。のちに箱館五稜郭政権の陸軍奉行並。
名は義豊、俳号豊玉、別称を内藤隼人といった。武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)土方義諄の4男。
生前に父を失い、6歳で母も失って兄喜六夫婦に育てられる。
文久3年(1863年)の上洛浪士組に参じ、近藤勇、沖田総司らと共に京都に残留し新選組副長となる。新選組の名を一夜にしてなさしめた池田屋騒動では、古高俊太郎の拷問で足の甲に五寸釘を打ちつけ、百目ろうそくを傷口に流し込んだといわれる。
土方は法の番人的存在で局中法度を徹底的に貫き、山南敬助、河合耆三郎らを切腹に追い込むなど内部粛清に猛威を振るった。
明治1年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦い以後、新選組の戦闘指揮をとる。宇都宮、会津若松と転戦したのちに榎本武揚らと五稜郭に渡り、翌年3月回天艦に搭乗して宮古湾の海戦に参じる。その後、箱館戦争の雌雄を決する激戦において官軍の猛攻に抵抗中、壮烈な戦死を遂げた。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」