近藤勇

近藤勇(こんどう いさみ)1834年11月9日(天保5年10月9日)〜1868年5月17日(明治1年4月25日)

幕末維新期,京都守護職傘下の新選組局長。

武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水町)宮川久次郎と母えいの3男。名は昌宜,幼名勝五郎,通称勝太,勇,のちに,のちに大久保大和藤原剛と称した。変名に近藤内蔵助,近田勇平など。

天然理心流3世近藤周助に望まれ4世を襲名するが,それに先立ち周助の実家島崎の養子となり島崎勝太,島崎勇を名乗ったのち,近藤勇藤原昌宜と称した。字を外史,東州と号す。

文久3(1863)年2月8日清河八郎ら上洛浪士組(将軍上洛の列外警護として幕府が募った)では先番宿割役を務め,一時は土方歳三沖田総司らが属す三番組の小頭を任じた。清河らの帰府に従わず,京都に残留して新選組母胎の局長,同年9月18日芹沢鴨を粛清し新選組局長として君臨。元治1年6月5日(1864年7月8日)池田屋に尊攘派志士を襲撃,殺傷した,いわゆる池田屋騒動で勇名を馳せる。

慶応1(1865)年11月4日長州訊問使永井主水正尚志に随行。近藤内蔵助を名乗って,伊藤甲子太郎,武田観柳斎,尾形俊太郎と共に広島へ出立。長州藩宍戸備後を国泰寺で訊問。同3年6月10日近藤,土方,沖田ら新選組遂士105人が幕府の召しかかえとなる。

同年10月7日土佐陸援隊に潜入させた村山謙吉から,10月15日西軍の武力討幕蜂起の諜報を得て京都守護職に報じるが,これは幕府に大政奉還を決意させるひとつの要因となった。

同年11月15日(12月10日),坂本竜馬中岡慎太郎らが襲撃され容疑を受けると,それを新選組から離脱した甲子太郎の密告によるものと判断,3日後,七条油小路において甲子太郎,藤堂平助,毛内有之進,服部武雄らを要撃した。

同年12月18日伏見街道墨染辺りで,篠原泰之進と阿部十郎に狙撃され右肩に銃創を負う。鳥羽・伏見の戦を経て,江戸に引き揚げ後,甲陽鎮撫隊を組織するも甲州勝沼で敗走。下総流山(千葉県)で官軍に投降。

明治1(1868)年4月,板橋において斬首。首級は同所に晒され,さらに翌閏4月,京都の三条河原に梟首。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」