徳川慶喜(一橋慶喜)

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)1837年10月28日(天保8年9月29日)〜大正2年1913年11月22日

徳川15代目将軍,最後の征夷大将軍。

水戸藩主徳川斉昭の7男に生まれ,一橋家に迎えられる。ペリー来航の衝撃以来強力な指導者を待望する声が高かった。時の将軍徳川家定は病弱で子がなく,将軍継嗣が問題となる。「英明」と評され,親藩・外様の有志大名および朝延に支特され有力候補となるが,疎族の水戸徳川の出身という理由で譜代門閥から抵抗を受けた。

安政5(1858)年4月譜代筆頭井伊直弼が大老に就任,徳川家定と血脈の近い義富(家茂)を継嗣として公表。7月これに反対する一橋支持者の処分があり,連座して登城禁止。家茂が14代将軍となり,翌年8月隠居・謹慎に処せられる。桜田門外の変後に謹慎解除,文久2(1862)年7月,朝延と島津久光の要請により,幕命により一橋家を再相続,将軍後見職となる。

文久3年1月上洛,朝幕間の融和を図るが尊攘運動の攻撃さらされ失敗,江戸に帰還。8月18日の政変ののち上洛,有志大名と共に朝議参与。国内政治の安定を図るが久光と対立を深め,参与会議解散後の元治1(1864)年3月将軍後見職を就任,新設の禁裏守衛総督に就命される。以来,関白二条斉敬,朝彦親王と提携して朝延に勢力を扶植。京都守護職会津藩主松平容保,京都所司代桑名藩主松平定敬を配下とし独自の権力を構築,一会桑政権である。第1次長州征討を得て慶応1(1865)年閏5月将軍家茂が,上洛・参内,大阪城に入る。9月薩摩藩の反対をおして長州再征の勅許を得る。だが膜臣の嫌悪は消えず有志大名との関係は疎遠となり,翌慶応2年1月,一会桑を敵とする薩長連合が成立した。6月長州征討開始,7月家茂逝去,8月前将軍の死を公表し戦闘を中止し宗家を相続。12月将軍に就任した。

慶応3年ロッシュの意見を容れながら幕政改革に着手したが情勢は切迫,5月上洛の有志大名と協調を図るが成らず,薩摩藩との対立は決定化する。10月,土佐藩の検白を受け,公議政体を創設して徳川勢力の温存・拡大を図り大政奉還を行う。だが諸侯は上洛せず,政情混迷のなか王政復古の政変があり,大阪城に入る。翌慶応4年1月1日討薩表を掲げ兵を京に進めたが,鳥羽・伏見の戦いに敗れ大阪を脱出。海路江戸に帰る。2月恭順の態度を示し上野寛永寺に屏居。

江戸開城に伴い水戸へ,次いで,静岡に鎮慎。時に32歳。翌年鎮慎免除。以来,狩猟,謡曲,囲碁などを楽しみ日を送る。西洋の文物に関心を寄せ,豚肉を好んで豚一様と呼ばれたのは一橋当主のころ,晩年にはパンとミルクに親しみ,写真撮影に熱心だった。同13年将軍時代と同等の正二位叙せられ,同31年参内し明治天皇と面会,同35年公爵。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」