菅原道真

菅原道真(すがわらのみちざね)845年(承知12年)〜903年3月26日(延喜3年2月25日)

平安中期の学者,政治家。学問の祖として尊崇されている。

菅原是善と伴氏の娘の3男。幼名阿古。

早くから家芸の指導を受け,11歳のとき父の命ではじめて詩「月の夜に梅花を見る」を詠んだ。15歳で元服,18歳で文章生試に合格して以降,文章道のエリートコースを歩み,元慶1(887)年10月文章博士に任じられている。同4年8月,父是善が没し「菅家廊下」(菅原家経営の私塾)を継承,門弟の教授に当たることとなった。同7年,来日した渤海使の迎接に当たって「鴻臚贈答詩」つくり,翌年には藤原基経のために五十算画算賀屏風図の詩を作るなど,才能を発揮したが,仁和2(886)年正月の除目で式部少輔,文章博士,加賀権守を解かれて讃岐守に任じられ,左遷との噂に意気消沈し任国へ下っている。

讃岐では「寒早十首」のように貧しい庶民にも心を配り,日照りに続きには城山に上って祈雨するなど,国務を果たしているが,心はいつも都にあった。任中2度帰京している。2度目はいわゆる阿衡の粉議(887)のときで,基経に諫言の書を呈しており,これがやがて宇多天皇に信任される因となる。

寛平2(890)年春,任議が終わるや,新任者との分付受領(事務引き継ぎ)もせず帰京した。翌年基経が没すると,早速宇多天皇に抜擢されて蔵人頭となり,以後官位累進,基経の子,藤原時平と共に国政にかかわり,いわゆる「寛平の治」の実をあげた。特に寛平6年9月,在唐層中鹻からの報告に端を発して使唐船の発遣問題が起こったとき,遣唐大使に任じられ,これを中止に導いたことは有名。

娘のうち長女(衍字)を宇多にいれ,昌泰1(898)年には別の娘を斉世親王(宇多第3皇子)の室にしている。いずれも宇多の要請に応じたものと考えられるが,時平たちの反発と警戒を呼び,それは昌泰2年,右大臣となるにおよび頂点に達した。このとき道真は寒門の身分には過ぎた恩寵であるとし,再三辞退したが許されなかった。同じ学者の三善清行から「止足の分」を知り辞職するようにとの勧告も受けた。

破局は昌泰3年9月,重陽の宴で醍醐天皇より御衣を賜った3ヶ月後に訪れている。宇多天皇が高野山や竹生島に出かけた留守中,ひそかに道真の追放が画策されたものとみられ,延喜1(901)年1月,大宰権帥に左遷され,12月1日,宣封坊の邸宅の梅に別れを告げている。息子たちにもそれぞれ遠国へ流罪とされ,一家離散した。配所では病疾に悩まされて, 望郷の思いのなかで,2年後に没した。

その怨霊が恐れられ,特に延長8(930)年6月の清涼殿への落雷事件が天神(雷神,農業神)新仰との習合を生み,天神として祭られるようになるが,10世紀後半には文道の即購入,学問の祖として尊崇されるようになり,中世では蓮歌の神とされた。

その遺骸は現太宰府天満宮(太宰府市)の地に葬られ,京都ではのちに北野天満宮)京都市上京区)に祭られた。その生涯を描いたものに『北野天神縁起』(鎌倉時代に完成。国宝。北野天満宮蔵)がある。漢詩集『菅家文章』『菅家後集』のほか,『類聚国史』や『日本文徳実録』『三代実録』の編纂に当たった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」