推古天皇

推古天皇(すいこてんのう)554年(欽明15年)〜628年4月15日(推古36年3月7日)

飛鳥時代の女帝。

在位は崇峻5(592)年12月から推古36(628)年3月。幼名は額田部皇女。欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛の間の皇女。豊御食炊屋姫天皇とも。

用明天皇の同母妹, 18歳で異母兄敏達天皇と結婚, 皇后(大后)広姫の死後皇后となり2男5女を生む。

32歳のとき敏達が死去, その殯宮で皇位をねらう穴穂部皇子が推古を犯そうとする事件が起こった。この事件は皇位継承に関して先王の大后が力を持っていたことを示す。

以後用明, 崇峻と蘇我氏を外戚とする天皇が続くが,穴穂部と結んだ物部守屋が蘇我馬子に滅され,次いで馬子と対立した崇峻が暗殺されて政治的危機が生じると,39歳の推古は馬子に推され豊浦宮で即位。女帝の確実な最初の例である。宮はのち, 小墾田に移される。

崇峻2(589)年隋が中国を統一し,東アジア諸国は隋・唐中心の新たな秩序に組み込まれようとしていた。推古, 馬子, 聖徳太子らは内政面では推古11(603)年の冠位十二階制・翌12年憲法十七条の制定,『天皇記『国記』の編纂などを通じ,大王への権力の一元的集中をめざす新たな官司制の創出を計った。

一方外交面では6世紀以来の新羅との紛争を引きずりつつ,百済僧観勒や高句麗僧曇徴に代表される朝鮮文化・技術を導入,また推古8年, 15年, 16年などに遣隋使留学生を派遣して中国との直接外交, 中国文化の導入を計った。

さらに蘇我氏や聖徳太子は仏教を積極的に保護し,法興寺, 四天王寺, 法隆寺などを建立。飛鳥文化が開花, その一方僧尼統制のための僧綱制も開始された。

この時期の蘇我氏は歴代大王の外戚として,堅塩媛改葬に象徴される巨大な権力を有していた。

しかし祖先の地として大王家の葛城県を馬子が要求したとき拒否したように,推古は大王家の長として行動している。75歳で推古が死去したとき,聖徳太子ら推古の後継者はすでに亡くなっていた。そのため次の大王についての推古の遺詔をめぐり,豪族間の対立が起こっている。推古はその希望によって息子竹田皇子の墓に合葬されたが,のちに磯長に改葬された。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」