徳川吉宗(とくがわよしむね)1684年11月27日(貞享1年10月21日)〜1751年7月12日(宝暦1年6月20日)
江戸幕府第8代将軍。
幼名は源六,新之助,諱ははじめ頼方,のち吉宗。徳川御三家のひとつ紀州(和歌山)藩徳川家の第2代藩主光貞の4男。和歌山県生まれ。
元禄8(1695)年に12歳で元服し,超前国(福井県)凡生群において3万石の領地が与えられる。宝永2(1705)年,長兄綱教,次兄頼職の相次ぐ病死によって紀伊徳川家55万石を相続した。次いで享保1(1716)年,7代将軍家継が8歳の幼少で死去すると後継者問題が起こったが,すでに紀州藩主としても声望の高かった吉宗が徳川宗家を継承することとなり,8代将軍として迎え入れられた。
吉宗は,側用人偏重に流されていたそれまでの政治体制を改め,家康の時代のあり方へ回帰を表明することによって,名門旗本や老中ら譜代諸勢力の支持を取り付けるとともに,元禄時代以来の華美と放漫な支出によって破産状態になっていた幕府財政の再建に着手した。いわゆる享保の改革である。
まず倹約を徹底するかたわら,応急処置として諸大名に石高1万石につき米100俵の割合で上米を要請。他方では定免法を採用するとともに,商人の資力を導入して新田開発を奨励した。江戸市政に関する諸制度も享保期に改革整備されたものが多く,なかでも町火消の設置と商工業者の仲間・組合の結成などが重要だが,これらには吉宗によって抜擢され江戸町奉行を勤めた大岡越前守忠相の功績が大きかった。また統一的な裁判規範となる『公事方御定書』の編纂には,評定所一座が主体となってとなって取り組み,吉宗自身も原案に対して具体的な意見や指示を繰り返し,寛保2(1742)年3月に完成した。幕府の行政制度の充実も計り,勘定所を中心として機構整備を進めたが,さらに行財政改革を推進するために有能者を抜擢登用する制度として享保8年に足高制を導入した。これは,役職ごとに基準石高を設定し,その高におよばない少家禄者には,その差額(「足高」)を在職中に限り支給する制度である。それによって,例えば役職高300石の勘定奉行についても,500石未満層の幕臣の任用される割合が,これ以降は4割以上にのぼったのである。法制の整備と相まって行政官僚制の充実発展は吉宗の功績の大なるもののひとつである。
さらに吉宗の政治で重要なことは,単に幕府自身の利益の追求だけでなく,国富,国益というものに大きな関心を向けていったことである。吉宗は長崎貿易については,新井白石の生得新例を永世の良法として支持し,金銀などの貴金属の海外流出を防ぎ,輸入品もなるべく国産物で代替していく産業政策をとった。輸入製糸(白糸)や絹織物は17世紀のうちに国産化が進行していたが,吉宗は全国各地に採薬使を派遣して,国内産薬種の発見や栽培に努めた。人工栽培が困難とされていた朝鮮人参の栽培に取り組み,20年にわたる試行錯誤の末その国産化に成功。甘蔗(さとうきび),甘藷,櫨などの国産化もすすめ,特に甘蔗の栽培は青木昆陽によって国内各地に広められ,球慌作物として大きな役割を果たした。
こうした国産開発政策は,幕府の諸大名を動員した日本国内の産物,自然物の総合調査としての諸国産物取り調べ(1734)へと拡大され,次に,全国各地の産物や希少品を一堂に会して展覧する産物会の開催を民間において流行させ,産業開発を目的とする物産学を発達させた。それとともに博物学や自然誌といった,より学術的な関心と知識とを人々にもたらすことによって理学思想の発達を促すこととなった。
吉宗は産業の開発に役立つ実学を奨功し,理学技術的な知識を得ようとして,漢訳洋書の輸入制限の緩和をすすめた。さらにヨーロッパ原書の知識を直接呼吸すべく昆陽や野呂元丈をオランダ語の学習に取り組ませたが,彼らは蘭学の先駆者ともなっていくのであり,吉宗の推進した一連の政策はわが国の近代化にとって重要な役割を果たしたのである。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」