源義経(牛若丸)

源義経(みなもとの よしつね)1159年(平治1年)〜1189年6月15日(文治5年,閏4月30日)

鎌倉初代の武士。

義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれ,幼名は「牛若丸」,また九郎御曹子と称された。

父が平治の乱(1159)で敗れたことから,平氏の追っ手を逃れて各地を法浪し,やがて公法浪し,やがて公卿の藤原長成の扶持によって鞍馬寺に預けられ,そこを金商人の吉次に連れ出されて奥州に赴いたという。

頼朝が治承4(1180)年に挙兵したのに呼応して,駿河国(静岡県)黄瀬川に奥州から駆けつけた。

やがて頼朝の代官として,寿永2(1183)年末から畿内近国に派遣されて,翌年1月に木曾義仲を討つ搦め手の将軍として宇治川の戦いで勝利し,次いで2月には摂津一の谷の戦でも,搦め手の将軍となって平氏を奇襲により討ち破った。

その賞により検非違使となって九郎伴官と称されたが,他方で頼朝の命により畿内近国での武士の乱暴停止や武士の恩賞地を打ち渡すなど支配権を固めていった。

さらに翌文治1(1185)年2月には荒波を越えて阿波勝浦に渡り,阿波水軍を奇襲によって破るとその勢いをかって讃岐屋島から平氏を追い出し,ついに3月には平氏を長門(山口県)壇の浦で滅ぼした。

一騎討ちを主要な戦法とする当時にあって,奇襲戦法のゲリラ戦を得意とし,その軍略によりよく平氏追討を成し遂げたのであった。しかし東国の武士との争いが絶えなかったことや,頼朝から厳命されていた天皇位を象徴する三種の神器のうち宝剣を回収できなかったことなどから頼朝との不和が始まった。

西海から生け捕りにした平宗盛や建礼門院を連れて京凱旋した義経を持っていたのは頼朝の冷酷な仕打ちであって,畿内近国の支配権を奪われ,恩賞も取り上げられた。

意を決して平宗盛を連れて鎌倉に下ったが,鎌倉に入ることを許されず,鎌倉の入り口の腰越から頼朝側近の大江広元に宛てて弁解の訴え(腰越状)を記したが,それも叶わず帰京する。

やがて頼朝から刺客土佐房昌俊が差し向けられるなど,身近の危険を察知して叔父の行家と共に後白河法皇に迫り,頼朝追討宣旨を得ると兵を挙げるべく摂津大物浜から渡海を試みた。だが暴風雨に遭い失敗して摂津住吉浜に上陸し,白拍子の静と共に吉野に逃れ畿内近国を流浪したあげく,奥州藤原氏を頼って逃れた。

奥州では藤原秀衡の保護を得たものの,秀衡が亡くなると,頼朝の圧迫で藤原氏の内紅が始まり,ついに文治5年に藤原泰衡に襲われて討死した。

「色しろう背ちいさきが,向歯のことにさしでて」とあるように,いささか貧相な容姿だったらしいが,そのたぐいまれな戦いぶりと悲劇的な生涯とが後世の人々に大きな感動を与え,なかでも『義経記』が南北朝時代に作られた影響は大きく,「伴官びいき」の言葉が生まれ,「伴官物」といわれる能や幸若,浄瑠璃,歌舞伎などの芸能が多数生まれた。また各地に義経伝説が生まれたが,その最たるものが義経は大陸に渡りジンギスカンになったというものである。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」