白河天皇

白河天皇(しらかわてんのう)1053年7月7日(天喜1年6月19日)〜1129年7月24日(大治4年7月7日)

平安後期の天皇で,譲位後も長く太上天皇として君臨し,いわゆる院政の伝統を創った。

いなみは貞仁。後三条天皇の第1皇子。生母の藤原茂子は実父が藤原公成,養父が藤原能信で,摂関家の娘ではない。

父後三条が即位した治暦4(1068)年の翌延久1(1069)年,皇太子に立てられる。さらに3年後の4年,父の譲位を受けて践さくした。しかし,問題はこのとき異母弟の実仁親王が立太子にあったと考えられ,この父の意思によって,白河天皇の子孫さ皇位継承から除外される方向が明らかになった。

白河の全人生は,かかる父の遺志に逆らい,自己の子孫の皇位継承を実現することに費やされる。その途は父と実仁の死によって開かれた。

応徳2(1085)年実仁が病死すると,翌応徳3(1086)年,白河は嫡子(堀河天皇)を皇太子に立てたその日に譲位を行った。緊張した異例の譲位であるが,それはなお有力な皇位継承候補者として,輔仁親王(実仁の同母弟)が存在していたためである。

白河の宿願は,康和5(1103)年堀河天皇に長男(鳥羽天皇)が誕生して,ようやく果たされた。白河はこの孫の鳥羽天皇の即位に引き続き,さらにその長男(崇徳天皇)も即位させて,ついに在世中に皇継承は曾孫にまで至ることとなった。その執念の深さが窺われる。

保安1(1120)年,関白藤原忠実を勅勘に処した事件を起こすが,これは鳥羽天皇が忠実と連携して自立の動きをみせたためであるらしい。このように77年の生涯を通じて,白河は皇位継承と子孫に対する支配を貫徹しようとした。この点に院政と呼ばれるものの本質があろうかと考えられる。

白河はよく専政君主と評価されているが,実際にはそのようにはみなし難い。愛憎の情は激しくとも,基本的に貴族と協調的であった。「天下三不妬意」や「雨水の禁獄」などの説話にも,その悪戯好きで冗談も口にする一面を読み取るべきであろう。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」