最澄

最澄(さいちょう)767年(神護景雲1)〜822年6月26日(弘仁13年6月4日)

平安時代初期の僧。日本天台宗の祖。

貞観8(866)年,清和天皇から日本最初の大師号宣下を受け,伝教大師と諡された。近江国滋賀郡(滋賀県)に住む三津首百枝の子,母は不詳。

三津首氏は志賀漢人系の渡来氏族で,後漢孝献帝の後裔と伝えられる。幼名を広野といい,12歳のとき,近江の国分寺で大国語師行表の弟子となって禅法と唯識を学び,15歳で国分寺僧として得度し,最澄と名乗った。

その後,東大寺の戒壇で具足戒を受けて正式に僧となったが,延暦4(785)年には比叡山に入って禅定修行を行う一方,華厳教学の前提となった天台教学に深い関心を寄せるようになった。同21年,和気氏が主宰する高雄山寺の法会で,講師となって天台の立場を主張したことが契機となり,新しい仏教を求めていた桓武天皇の勅命で,短期派遣の入唐還学生に選ばれた。

同23年7月,遣唐第2船に乗り,9月1日に明州(寧波)に着き,天台山で道邃から天台の法門と菩薩戒を受け,行満に天台を学び,翛然から牛頭然を,惟象から大仏頂曼茶羅を伝授され,その間に多くの典籍を得た。翌年4月,越州(紹興)に赴き,順暁から密教を学び,密教の典籍を集め,5月には明州から帰国の船に乗った。

短期間に当時の仏法を総合的に学んだ最澄は,同24年7月15日,桓武天皇に帰国の報告をし,待ち帰った典籍は,230部,460巻に上った。最澄は,円禅戒密の四種相承という総合的な仏法の立場を主張し,翌大同1(806)年1月,天台宗の開宗が公認されたが,3月には桓武天皇が亡くなって後援者を失った。

比叡山を中心に活発な宗教活動を展開する最澄は,共に入唐し密教を深く学んで帰国した空海と親交を結んだが,間もなく宗教観の相違から絶交するに至った。弘仁5(814)年,筑前,豊前に,同8年には関東へと布教の旅に出たが,奥州会津(福島県)にいた法相宗の徳一との間で,三一権実論争と呼ばれる激しい教学論争を続けるなかで,『守護国界章』『法華秀句』などを著した。

同9年最澄は,若いときに南都で受けた小乗戒(具足戒)を捨て,比叡山に大乗戒(菩薩戒)の戒壇を設立することを宣言した。南都の学僧たちは,最澄が天台宗の独立に反対したので,最澄は『顕戒論』を著して反論したが,大乗戒壇設立は認められず,許可されたのは,最澄の没後7日目のことであった。

門下に,義真,光定などがある。最澄は,学問を中心にした南都仏教に対して,実践を重んじ,国家に対して仏教の自立をめざす運動を続けた。その一貫して理想を追い求める生涯は,晩年の不遇を生むことになったが,最澄の思想は,仏教の日本化を導き,鎌倉時代の仏教革新運動の源流となった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」