足利尊氏

足利尊氏(あしかが たかうじ)1305年(嘉元3年)〜1358年6月7日(延文3年/正平13年4月30日)

室町幕府の創設者で初代将軍。

源頼朝の同族の名門としてとして鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流に生まれた。父は貞氏,母は上杉清子。初め高氏。妻は執権北条守時の妹登子。

元弘1(1331)年後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと,高氏は天皇軍討伐の幕命を受けて上洛。事件が落着して一旦鎌倉に帰り,後醍醐軍の再起によって再び出動を命じられると,凡波で突如反幕の旗を揚げ,京都の六波羅探題を急襲駆逐した。その半月後,鎌倉幕府は滅亡,後醍醐は京都に帰還して,建武新政が開始された。高氏は討幕の珠勲者として天皇の諱(尊治)の1字を与えられて尊氏と改名,高い官位と莫大な賞賜を得たばかりでなく,鎌倉に嫡子義詮をとどめて,関東制圧の拠点をかためた。

後醍醐は尊氏に破格の待遇を与える反面,その実力と声望を恐れて新政の中枢から遠ざけ,また北畠顕家に愛児義良親王をつけて奥州に派遣し,関東の足利勢力を牽制しようとしたが,尊氏は直ちにこれに対抗して成良新王を鎌倉に下し,弟直義を以って輔佐せしめた。この間,新政の失敗が重なり,武士の輿望が尊氏に集まるにつれて,後醍醐と尊氏の対立が次第に高まった。

新政開始からわずか2年後の建武2(1335)年1月,北条氏残党の鎌倉侵入を転機として尊氏は幕府再建の志を明らかにし,後醍醐よ制止を無視して鎌倉に下り,北条氏残党を掃蕩した。次いで後醍醐の派遣した新田義貞を破って上洛したものの,奥州軍に敗れて九州に逃れ,再挙東上して後醍醐軍を追いつめ,後醍醐より持明院統の豊仁新王(光明天皇)への譲位という条件で後醍醐と和陸するとともに,建武式目を制定して京都に新しい幕府を開いた(のち,これを室町幕府という)。時に建武3(1336)年11月。2年後,正式に征夷大将軍となる。他方,後醍醐は吉野に走り光明の皇位を否定して尊氏打倒を諸国に呼びかけた。吉野の南朝,京都の北朝対立の始まりである。

尊氏は幕府の運営に当たって,武士に対する支配権と軍事指導権は白身で握り,裁判その他の政務は弟直義に委ねるという二頭政治を布いた。しかしこの体制は,直義を中心に結集する官僚派と尊氏を頂く高師直ら武将派の対立を引き起こし,やがてはこれが尊氏と直義の対立に発展,さらに南朝が第三勢力として加わったため,直義が死んだのちも直義党は諸国で根強い反抗を続け,この間,南朝軍や直義党が3度も京都に侵入するなど,争乱は長期化,全国化の様相を呈した。

尊氏は,3度目の京都侵入軍を駆逐して,畿内と周辺地域の鎮定を実現して3年後,京都で病死した。死因は背中の癰(腫物)であったが,晩年の5〜6年はいく度も大病をやみ,往年の精彩は失われていた。法名,等持寺殿仁山妙義。また長寿寺殿ともいう。

尊氏は洞察・決断・機敏の才を兼ねたうえに,その信迎上の師夢窓疎石の評した如く,豪勇・慈悲心・無欲の三徳を備え,人間的魅力に溢れた人間であった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」