新田義貞(にった よしさだ)1301年(正安3年)〜1338年8月17日(暦応1/延元3年閠7月2日)
南北朝時代の武将。
新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。
文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。
正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。
翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の微集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。義貞はその過酷な微集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は壮内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡壮(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。
一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政網,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ヶ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。
後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。
建武2(1335)年,南北朝内乱が開始させると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。3年8月,両朝の一時的和陸の際,垣良親王院を擁して越前(福井県)に下向して金ヶ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」