田沼意次

田沼意次(たぬま おきつぐ)1720年(享保5年8月)〜1788年8月25日(天明8年7月24日)

江戸中期の老中。

幼名竜助のち主殿頭。父意行は徳川吉宗の宗家継統に随従した新参幕臣で,本丸小姓時代に江戸城内の田安御用屋敷に勤務したので意次はここで生まれた。

16歳のとき将軍吉宗の世子家重の小姓となり,享保20(1735)年父の死後父の死後家督を継ぎ,元文2(1737)年主殿頭に叙任。

9代将軍家重時代に出世の緒につき,本丸小姓から御用取次へと昇進し,特に宝暦8(1758)年,幕府評定所の美濃郡上藩宝暦騒動の吟味に際し,家重の命で評定所に出座し万石(大名)に列した。

家重・家治2代の恩寵が厚く,10代将軍家治の代の明和4(1767)年には側用人に進み,2万石に加増され,遠江相良に築城を許され城主となった。6年老中格,安永1(1772)年には老中に進み,たびたびの加封で5万7000石を領した。

明和・安永・天明期の幕政を担当,特に天明年間は意次の全盛期で,時人も「田沼時代」と称した。

老中就任以前の意次は政治の表舞台には関与せず,将軍側近の立場を利用したフィクサー的な役割を演じていた。

明和〜安永期の幕府経済政策を全て田沼の政治と結びつける考えがあるが,この時期の政治の指導権は老中主座の松平武元にあり,田沼独自の経済政策はもっぱら天明期に展開された。その主な政策に,印旙沼・手賀沼の千拓,蝦夷地の開発と交易,吉野金峯山の鉱山開発,貸金会所の設置などがあるが,いずれも中途半端のまま田沼の失脚で中止,撤回された。

天明6(1786)年8月政治急死の直後,将軍の小姓,小納戸らのクーデタもどきの政変で意次は老中を辞任,失脚した。

11代将軍家斉の代に変わると,2度も処罰を受け(蟄居,相良城破却,藩領収公,1万石に滅封,嫡孫意明は陸奥下村に転封),失意のうちに死去した。

隆興院殿耆山良英大居士。墓は菩提寺の勝林寺(東京駒込)にある。田沼非難の声は権力の絶頂期からあったが,特に田沼失脚の直後にはおびただしい田沼政治糾弾の落書,楽首類が巷間にあふれ出た。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」