徳川家斉

徳川家斉(とくがわ いえなり)1773年11月18日(安永2年10月5日)〜1841年2月27日(天保12年閠1年7月)

江戸幕府11代将軍。在職は50年におよび歴代将軍で最長。

御三卿の一橋治済の長男。母はおとみの方(岩本氏, 慈徳院)。幼名は豊千代。院号は文恭院。

天明1(1781)年10代将軍家治の世子となり,7年15歳で将軍宣下を受けた。その年から寛政の改革が始まったが,将軍補佐役についた老中松平定信が実質的な権力を振るった。

光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとした(尊号事件)ように,実父の一橋治済に大御所の称号を贈ろうとして定信に阻止されたといわれる。

寛政5(1793)年に家斉と確執の生まれていた定信が辞職したのちは,松平信明ら「寛政の遺老」と呼ばれた老中を指揮して幕政を運営した。

しかし,文政1(1818)年に側近の水野忠成を老中に据えてからは, 一部側近に幕政運営を任せたため,側近による政治の専断や多くの介入は目に余るものがあった。

家斉は「敏慧」と評された能力の持ち主だったが,生活は非常に豪奢, かつ好色家であり,側室が40人, 子供は55人の多数におよんだ。

この子供たちの養子や嫁ぎ先の大名を優遇したため,他の大名の反発を招いた。

また日蓮宗を盲信し,感応寺を建立した。

天保8(1837)年に将軍職を徳川家慶に譲ったが,大御所として死ぬまで実権を離さなかった。

寛政の改革が生み出した政治上の相対的安定期に在職し,政治的には比較的穏やかで,しかもその生活ぶりもあいまって,江戸時代の2大文化のひとつの化政文化が花開く要因をつくった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」