今川義元(いまがわ よしもと)1519年(永正16年)〜1560年6月12日(永禄3年5月19日)
戦国時代の武将。
父は駿河・遠江守護今川氏親。母は中御門宣胤の娘寿桂尼。通称五郎。治部大輔。幼少のころ出家し,梅岳承芳と称した。
氏親よりつけられた太原崇孚に従い,京都建仁寺, 妙心寺において臨済禅を学ぶ。のち駿河善得寺にあったが,長兄氏が天文5(1536)年3月に病死すると還俗し,将軍足利義晴の諱の1字をもらって義元と名乗り家督を継承。これに対し,庶出の次兄玄広恵探の反乱(花倉の乱)が起きるが,6月10日これを下し,領国政策に着手する。
翌6年,敵対していた甲斐の武田信虎の娘を妻とし同盟を結んだが,これにより従来同盟関係にあった相模北条氏との関係が悪化,義元自身が「河東一乱」と呼ぶ, 富士川以東の地域を巡る北条氏綱との抗争を招いた。
また,西方においては尾張織田氏が台頭し,同年三河岡崎城を攻撃。岡崎城主松平広忠は,子竹千代(のちの徳川家康)を人質として送ることで義元に援助を要請。義元もこれに応じるが,途中織田信秀に竹千代を奪われる。
同18年広忠が死去し,松平勢力が織田氏につくことを恐れた義元は安祥城を攻撃。城主織田信広を捕らえて竹千代と交換することで,松平氏と三河をその配下に置いた。
義元は天文21年に娘を武田晴信の子義信に嫁がせていたが,同23年,晴信の娘が北条氏康の子氏政に,氏康の娘が義元の子氏真に嫁ぐことで甲相駿(甲斐,相模,駿河)三国同盟が成立。背後の憂いを断った義元は,永禄3(1560)年5月,不安定な西三河に支配を確立するため大軍を率いて出陣したが,同19日,桶狭間において織田信長の奇襲により討死した。
義元は天文22年2月26日,「仮名目録追加」を制定。また,駿河,遠江,三河において検地を施行し,増分の検出により財政を強化,さらに軍役を整備し,寄親・寄子制度を創出するなど領国体制の確立に努めた。
敗将ゆえに後世において,和歌を嗜み鉄漿をつけた柔弱な武将とされるが,これは必ずしも正当な評価ではない。墓所は臨済寺にある。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」