織田信雄

織田信雄(おだ のぶかつ) 1558年(永禄1年)〜1630年6月10日(寛永7年4月30)

安土桃山時代の武将。

織田信長の次男。母は生駒氏。尾張国清洲城に生まれる。幼名は茶筅,通称三介。名ははじめ具豊,のち信雄と改めた。「のぶお」とよむ場合もある。

永禄12(1569)年,信長が伊勢国司家である北畠具教・具房父子を大河内城に攻めたとき,信雄を具房の猶子にする約束で講和が結ばれ,北畠氏を称した。

以後,越前一向一揆討伐,紀伊雑賀攻め,石山本願寺との戦など, 信長の主な戦いに参陣している。

天正9(1581)年伊賀平定の功により伊賀3郡を与えられ,翌10年の本能寺の変のときは伊勢にいたが,近江土山まで出て光秀敗死の報を聞き,兵をもどしてしまった。そのころ北畠から織田に復姓している。

同年6月27日の清洲会議の結果, 織田家の家督は信雄でも,3男信孝でもなく,長男信忠の遺児三法師(秀信)が継ぐことになり,信雄はその後見役として清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後,豊臣秀吉と組んで信孝を岐阜城に破り,その後切腹に追いこんだが,やがて秀吉と対立,天正12年には,徳川家康と結び,小牧・長久手の戦で秀吉と戦っている。しかしこのときは単独で秀吉と講和を結び,以後秀吉の越中攻め,小田原攻めに従軍した。

ところが小田原攻めののち,家康旧領への転封を拒んで,秀吉の怒りを買い, 下野烏山に配流され,出家して常真と号した。のちに家康のとりなしで秀吉の御咄衆となったが,一貫して家康サイドで動き, 大坂夏の陣後,家康から大和国宇陀,上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうちで5万石を与えられている。叔父の有楽斎(長益)に茶の湯を学び,茶人としても知られる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」