真田幸村

真田幸村(さなだ ゆきむら)1567年(永禄10年)〜1615年6月3日(元和1年5月7日)

安土桃山・江戸初期の武将。

名は信繁。幸村と称するが確かな史料はない。信州上田城主真田昌幸の次男。母は右大臣菊亭(今出川)晴季の娘。

天正13(1585)年に上杉景勝の人質となる。同15年には父が豊臣秀吉に臣従したのに伴い大坂城へ出仕。秀吉配下の武将大谷吉継の娘を妻として,豊臣家との縁を深めた。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦では父と共に石田三成方について上田城で籠城し,中山道を進む徳川秀忠軍を挑発してその西上を阻止した。

敗戦後,父と共に高野山麓の九度山に流されたが,同19年の大坂冬の陣に際しては,大坂方の招きに応じて入城し,大坂城外堀の天王寺口に出城「真田丸」を築き,徳川方の攻撃を退けた。

翌年の夏の陣でも勇戦して家康の本陣を脅したが,5月7日の天王寺方面の戦闘で松平忠直の軍勢と激戦のすえ戦死した。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」