伊達政宗(だて まさむね)1567年9月5日(永禄10年8月3日)〜1636年6月27日(寛永13年5月24年)
安土桃山から江戸時代前期の武将。仙台藩藩祖。
幼名梵天丸,藤次郎。父は米沢城主輝宗,母は山形城主最上義守の娘義姫(保春院)。幼少のころ右眼を失明,「独眼竜」とも称された。従三位権中納言。賜称号羽柴のち松平。
元和3(1617)年4月, 日光東照宮の遷宮があった。現在,陽明門下から並んでいる諸大名献上の灯籠はこのときのものである。
この中に政宗の献上した南蛮鉄の灯籠がある。政宗は,この時国元にあり情報入手が遅れた。しかし4月下旬, 江戸にいる嗣子忠宗から諸大名灯籠献上の報せを受けるや,懇意にしている人々や幕府要人に手紙を送り自分の献上する灯籠の設置場所について巻き返しを図った。結果は「楼門之内」に決定し,満足できるものとなった。このことは政宗の普段からの人脈の広さ,要所を抑えた外交手腕を示している。
『伊達治家記録』に,豊臣政権以来しばしば「御懇意ノ御方」と称される人々が登場,政宗のため種々画策している様子が記されている。
18歳で家督を相続して以来, 天正16(1588),17年の南東北の統一と豊臣秀吉に対する弁明,18年の小田原参陣への遅参,18, 19年の葛西大崎一揆および蒲生氏郷との確執,文禄4(1595)年の豊臣秀次事件と政宗への疑惑, 慶長5(1600),6年の和賀一揆と伊達氏扇動説など,いずれも政宗の20歳代から30歳代前半にかけての血気盛んなときのことであり,ひとつ処置を誤れば伊達氏は滅亡の運命にあった。
南東北の統一の時は, 佐竹・筆名・大崎・最上氏らの包囲網に対し各個撃破と和睦策によって危機を脱し,小田原参陣では,伊達成実の主戦論(奥羽の覇者として豊臣軍を迎撃)と片倉景綱の参陣説(伊達氏の家名存続説)を慎重に判断している。
徳川家康との親密さも葛西大崎一揆ごろには明確であり,政宗を遠流に処し,転封のうえ秀宗(後宇和島藩祖)に跡を継がせる処置まで考えたといわれる秀次事件のときの秀吉への家康の助言などはその一例といえよう。
しかし,和賀一揆への疑惑から,慶長5年の所謂「百万石の御墨付」を棒に振ってもいる。徳川政権成立までの政宗の半生は, 戦国大名の姿そのものであり,幾多の危機を乗り越えた危機管理能力は, 伝統的な奥州探題として誇りと意地の発露といえる。
慶長5年仙台に築城(仙台城)開始,8年岩出山城より移り,名実ともに外様の雄藩・仙台藩の藩祖となる。領知高は徳川方についた関ヶ原の戦のあと60万石(のち62万石)。
詩歌・書・能・茶道など伊達氏歴代の教養を,政宗もまた身に付けており,当代一級のものであった。
海外にも広く眼を向け,慶長18年9月,支倉常長らを,メキシコ, スペイン, ローマ教皇のもとに派遣,「奥州王」として交易を画策したが,成功しなかった。
「欲征南蛮時作此詩」と題する詩の一節に「欲征蛮国未成功図南鵬翼何 時奮久待扶揺万里風」と詠んだ気概は70歳で没するまで終生藩主の座にあったことと無縁ではないかもしれない。
政宗は,実質上の奥羽の覇者で満足だったのだろうか。後半生は,領国経営に専念し,文化の導入を図った。「酔余口号」と題した「馬上少年過世平白髪多残軀天所赦不楽是如何」また「四十年前少壮時功名聊復自私期老来不識干戈事只把春風桃李危」に政宗の気持が現れている。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」