豊臣秀次

豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)1568年(永禄11年)〜1595年8月20日(文禄4年7月15日)

安土桃山時代の武将。

初名吉継,次いで信吉,のち秀次と改める。通称次兵衛尉,孫七郎。父は三好吉房, 母は豊臣秀吉の姉瑞竜院日秀。初め宮部継潤の養子,のち三好康長(笑厳)の養子となる。

天正12(1584)年4月の小牧・長久手の戦では, 指揮を誤って家中に多数の戦死者を出して秀吉から叱責されたが,同13年には羽柴の名字を許され,秀吉の諱の1字をもらって秀次と名乗った。

近江, 大和などに43万石を与えられ近江八幡山の城主となり,同年従三位中納言に叙任,近江中納言と呼ばれた。その後秀吉の異父弟大和大納言秀長や実子の鶴松が病没すると,同19年12月正二位左大臣に叙任し,秀吉から関白職を譲られて豊臣家の相続をも約束される。しかしなおも実権は秀吉の手中にあり,文禄2(1593)年,秀吉の側室淀殿秀頼を生むと秀次の地位は動揺を来し,とどのつまりは乱行を噂されて切腹に追い込まれた。男女ふたりの子供と妻および側室三十数人も京都三条河原で斬られている。

秀次の破滅について通説では,秀頼の誕生によって将来に失望した秀次が自暴自棄に陥り,乱行の果てに秀吉に対し謀反を企てたからであるといわれている。

江戸時代の諸書には秀次の乱行ぶりについて, 弓や鉄砲の稽古のために往来を通る者を召し捕らえて的代わり にしたとか,殺生禁断の比叡山で鹿狩りをしたとか,つまらないことから座頭や料理人をなぶり殺しにしたとか,妊婦の腹を裂いて胎児を取り出して眺めたとかいった話が記されている。しかしこのようなたぐいの話は信憑性を欠く。

秀次失脚の真相は,秀吉や淀殿のわが子秀頼に対する偏愛ぶりを目の当たりにした石田三成らが,陰謀を巡らして秀次を陥れたものと思われる。秀次は多才な人物で,剣術や歌道をよくし,また古筆了佐を扶持して名筆や古典籍を収集するなど文化的趣味が豊かであった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」