柴田勝家

柴田勝家(しばた かついえ)生年不詳〜1583年6月14日(天正11年4月24日)

安士山時代の武将。

通称権六。修理亮。

尾張愛知郡の出で初め織田信長の弟信行に仕えたが,のち信長の家臣として屈指の宿老となる。

猛将の誉れ高く,元亀1(1570)年龍城していた近江長光寺城(近江八幡市)を六角承禎に攻められたとき,飲料水の瓶を割って城には戻らぬ覚悟で出撃し,敵を破ったことから「瓶破柴田」の異名をとったと伝えられる。

天正3(1575)年9月,信長が越前(福井県)一向一揆を倒すと,同国の支配を委ねられたが,府中(武生市)に佐々成政不破光治, 前田利家らが監視役として置かれ(府中三人衆), 敦賀郡は武藤蕣秀に,大野郡の大部分は金森長近,原政茂にそれぞれ与えられたため, 越前一国にその支配がおよんだわけではない。

入国すると勝家は北庄(福井市)に9層の天主を持つ 城を築き,先に滅びた朝倉氏の城下町一乗谷(同市)から商人,職人を呼び寄せ,寺院を移して新しい町造りを行った。丸岡(丸岡町)に養子勝豊を,袋田(勝山市)には子息勝安を入れて支城とした。

また天正4年には7力条からなる国中掟を発布し,百姓が武士の家来になることや,税逃れの目的で他所に移ることを禁じ,家臣には勝家に無断で百姓を人夫に召し使ってはならないことなどを命じた。

同年刀狩を実施し,集めた武器を農具や九頭竜川の舟橋の鎖に改鋳したとの伝承も残り,民政にも手腕を発揮したことが窺われる。翌年, 信長政権下,越前で初めての検地も行っている。

同8年,加賀(石川県)一向一揆を平定して越中(富山県)に進み,越後(新潟県)上杉氏と対峙。

同10年の本能寺の変後は,信長の後継者の地位を巡って羽柴秀吉との対立が深まり,翌年4月近江賤ケ岳(滋賀県木之本町)で対戦したが敗れて北庄に退き,秀吉軍による包囲のなか,同24日北庄城にて妻お市(小谷の方。信長の妹,もと浅井長政の妻)と共に自殺した。辞世は「夏の夜の夢路はかなき跡の名を曇井にあげよ山ほととぎす」。北圧城本丸跡には柴田神社がある。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」