前田利家

前田利家(まえだ としいえ)1538年(天文7年)〜1599年4月27日(慶長4年閏3年3月)

安土桃山時代の武将。

利昌の4男, 母は竹野氏。尾張国荒子村(名古屋市中川区)生まれ。幼名犬千代。孫四郎のち又左衛門尉。

14歳で織田信長の近習となり,19歳。のときの合戦では, 顔に矢が刺さったまま相手を槍で倒したという。

天正3(1575)年信長から越前(福井県)を与えられた柴田勝家の監視役として佐々成政,不破光治と共に同国府中(武生市)に配され,同9年には能登(石川県)一国をあてがわれて国持大名となった。

本能寺の変後相対立した柴田勝家,羽柴(豊臣)秀吉とは双方ともに親密な間柄で,賤ヶ岳の戦では当初勝家に加担したが,途中で秀吉に降伏した。

勝家の自殺後,加賀(石川県)侵攻の先鋒を務めた功で加賀北半を加増され,さらに越中(富山県)の成政を下した功で,同13年嫡子利勝が越中3郡を得, 加賀, 越中, 能登3カ国にわたるのちの加賀藩領の原形ができた。翌年羽柴姓と秀吉の旧官名筑前守を譲られており,秀吉の信頼厚かったことがわかる。ちなみに3女摩阿(加賀殿)は秀吉の側室として聚楽第天守に住み, 4女豪は幼時より秀吉の養女となって寵愛された。

天正15年の九州出兵,同18年の関東・奥羽平定に大軍を出して秀吉の全国統一に参加。

文禄1(1592)年からの朝鮮侵略では名護屋(佐賀県鎮西町)に駐留し, 漢城(ソウル)陥落を聞いて渡海しようとする秀吉を徳川家康と共に諫止したこともある。

同4年の豊臣秀次の謀反後,秀吉の次男秀頼の守り役となり,翌慶長1(1596)年には従二位権大納言に進んだ。

五大老のひとりとして秀吉政権を支え,秀吉没後の同4年1月,秀吉の制法に背いた家康を追及する先頭に立ったがすぐ和解。その直後妻まつに遺書を代筆させ,まもなく大坂で没,遺言に従い金沢の野田山に葬られた。

若いときは派手好みで喧嘩早い「かぶき者」で知られ,老いても流行の細腰のをきらい太くしたという。また常に具足櫃にそろばんを入れていた計算上手で,伊達政宗らに金子を融資するなど経済的才覚もあった。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」